ここち

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君は風のように


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 二、三日して、気象庁が平年よりも十日ほど早い梅雨明け宣言を出し、気象予報士の予報通り天気は晴れ。空には青空が広がっていた。私は自宅の二階にある自分の部屋でレモンバームティーを飲みながら、参考書を広げて勉強していた。アイツが毎日迷惑に押しかけてきたせいで、私は中間試験も期末試験もろくに勉強が出来なかった。私の成績が下がっていたら、それは全てアイツのせいなのだ。とは言っても、そんな言い訳が先生に通用するはずはないし、夏は受験生にとって大きな山場である。高校卒業後の進路をどうするか、私はまだその答えを決めかねていたけれど、ここで勉強に手を抜くわけにはいかなかった。いずれにしても、勉強は大事だ。進路希望調査用紙もまだ提出していない。締め切りは明後日だった。親との相談も、当然ながらしていない。いい加減に決めなくては……そう思いながら一向に決心がつかず、時間ばかりが過ぎていく。アイツの言葉が脳内でちらついた。参考書を開きながらも、私は全く集中していなかった。
 ふと、コツンと窓に何かが当たる音がした。
「梨ぃ菜ぁ。」
 庭木をよじ登ったらしいアイツが窓の外で手を振っている。大人しく控えめだったお坊ちゃまは、随分とアクティブになったらしい。私が仕方なしに窓を開けると、アイツは窓枠の上で器用に靴を脱ぎ、するりと部屋の中に入って来た。
「何やってるの?」
 アイツはにこりと笑って私の机の上を見る。
「勉強。」
 私は小さくため息を吐いて、再び机に向かった。
「土を部屋の中に落とさないでよ。」
 私が忠告すると、アイツは窓に向き直って、パンパンと靴の底を合わせて叩いて土を払った。
「何の勉強? 英語? 数学?」
 アイツは靴を窓枠の上に置き、にっこり笑って私に尋ねた。
「数学。邪魔しないで。」
 私はアイツを片手で払いのけ、勉強に集中しようと小さく息を吐いて両手でノートを叩いた。数学は私にとって一番の苦手科目である。
「教えようか?」
 アイツはにこにこと笑いながら言う。小学校時代、百点ばかり取っていたアイツには、隣の席のよしみで何度か勉強を教えてもらったことはある。あの頃のアイツは教え方も上手かった。しかし、今のアイツから勉強を教わるつもりはない。下手に借りなんか作ったら後が問題だ。
「結構! 邪魔しないで!」
 私はきっぱり言い切った。
「梨菜。」
「邪魔しないでって言ってるでしょ!」
「問三、間違ってるよ。」
 アイツはにっこりと笑った。
「……放っといて! 後で見直すんだから良いのよ!」
 そう言いながら、アイツの指摘した問題をどう間違えたのか私は必死で頭を回転させていた。
「単純な計算ミスだと思うけど。」
 アイツが言った。
「黙ってて! あーもうっ、調子が狂う!」
 私はパタンと参考書を閉じた。アイツが側にいてはどうにも勉強に集中出来そうにない。私が集中して勉強に励むためには、まずアイツを追い返さなくてはならなかった。
「ねえ、これ、小学校の卒業アルバムだよね?」
 そう言ってアイツはベッドの下のカラーボックスを漁りながら言った。
「ちょっと、何勝手に……。」
 他人の部屋を無断で荒らすアイツに半ば呆れながら、私は言った。
「ほら見て。ここ。」
 アイツは卒業アルバムを順に捲りながら、「みんなの夢」と真ん中に大きく書かれた見開きのページで手を止めた。そして、アイツは真ん中の文字の周りに配置された吹き出しの一つを指差して見せる。そこには「ファッションデザイナーになりたい 片瀬梨菜」と当時の私の夢がはっきりと私の字で記されていた。
「私は勉強しなくちゃいけないの! もう邪魔しないで!」
 私はそう叫ぶと、アイツの手から卒業アルバムを取り返し、机の上に置いた。
「一生懸命に勉強しているのは大学に行くため? ファッションデザイナーにはならないの?」
 アイツはいつの間にか私のベッドに腰を下ろしていた。
「そうよ。」
 私は言い切った。実際にはまだ迷っていたのだが、アイツの前でそれを言ったらアイツはまた熱心に説得を始めるに違いない。
「そう……。」
 アイツは静かにそう言って俯いた。どこか悲しげな顔をして……。
「あ、あんたこそどうなのよ? 将来のこととかちゃんと決めてるわけ?」
 私はアイツの表情に戸惑いながら、早口で尋ねた。アイツは私に何度もファッションデザイナーを目指すよう言っていたが、アイツ自身の夢については一度も聞いたことがなかった。何より、アイツは自分自身のことをほとんど話さなかったのだ。
「うん、決まってるよ。」
 アイツは俯いた顔を穏やかに緩めた。
「ずっと前からね。」
 顔を上げて自信あり気ににこりと笑う。
「あ、そう。それで何に……。」
 「何になるつもりのよ?」と言いかけて、私は思い出した。アイツが笠原コーポレーションの御曹司だということを。つまり、アイツは将来をどうするもこうするも、笠原コーポレーションの次期社長という将来が約束されているのである。小学校の頃のアイツには社長なんて不釣合いだと思っていたし、アイツ自身、どこかそれを望んでいないような気もしていたのだが、今のアイツなら、社長という肩書きを存分に利用しそうである。尤も、アイツの代で笠原が終わってしまうのではないかという不安はあるのだけれど……。
「そうね。あんたには立派な野望があったわね。」
 私はそう言うと、馬鹿らしくなって再び椅子に腰を下ろした。ティーカップを取って、レモンバームティーを口に含む。
「覚えててくれたの?」
 アイツがさも意外というような声を出して尋ねた。
「え?」
 私はきょとんとして振り返った。私がついうっかり忘れていたことはともかくとして、アイツが笠原の御曹司であることはそもそも知っていて当然のことである。私がそれを覚えていたことをアイツが意外に感じるはずはなかった。忘れていたことを馬鹿にするのならともかく……。
「そっか、やっぱり梨菜は特別だ。」
 アイツがあまりにも嬉しそうに笑うものだから、私は深く尋ねることができなかった。
「色々……見て来たんだ。小学校とか。」
 アイツは窓の外を見ながら穏やかに言った。
「何で?」
「忘れないように。」
 アイツはにこりと微笑んだ。
「忘れないようにって……どういうこと?」
 私が首を傾げて尋ねると、
「そろそろこの世とさよならしなくちゃならないから……かな。」
 アイツはふっと笑みを見せて言った。
「は? 何それ、どういうこと?」
 私にはアイツの言っていることの意味がさっぱり分からず、思わず眉を顰めて尋ねたのだが、アイツは私の問には答えなかった。
「ねえ、梨菜。オレのこと……嫌い?」
 答えの代わりに、アイツは脈略を無視した質問を私に返した。アイツは私のベッドに腰を下ろしたまま、あの再会の時に見せたどこか悲しげな笑顔で私を見上げている。
「な、何よいきなり。別に嫌いなんて一度も言ってないでしょ。」
 私は慌てて言って、卒業アルバムを机の端に避け、閉じた参考書を開いた。なぜか鼓動が速くなる。
「じゃあ、好き?」
 アイツは僅かに首を傾げる。
「そうとも言ってない!」
 私は真っ直ぐアイツの方を向いてきっぱりと言い放った。すると、アイツはにっこりと笑って平然と言った。
「オレは好きだよ、梨菜のこと。」
「な、何言ってるのよ、いきなり。」
 予想外の言葉に、私は自分が耳まで赤くなっているのを感じた。熱い。
「好きだよ。」
 再び言って、アイツが立ち上がる。
「な、何なのよ、いきなり……。」
 私が椅子に座ったままうろたえていると、アイツが側までやって来た。妙に近付いたアイツの顔は、私の顔を避けて机の上のティーカップを覗き込んだ。
「今度のお茶は何?」
 話の流れを完全に無視している。完全に相手のペースになっている。これは良くない兆候だ。
「れ、レモンバーム。これならあんたでも飲めると思うけど。」
 私は何とか動揺を押さえ込んで言った。一説によれば、レモンバームはハーブティーの中で最もおいしいとされているものなのだ。レモンの香りはハーブティーに不慣れな初心者向きでもある。
「気持ちは嬉しいんだけど、残念ながら幽霊はこの世のものを口に出来ないみたいだから。」
 そう言ってアイツは笑った。
「……幽霊?」
 アイツのセリフの中に不思議な言葉を見つけて私は聞き返した。
「うん。」
「……誰が? と言うか、何が?」
 私は嫌な予感を抱きながら尋ねた。
「オレが。」
 アイツはにこりと笑う。
「な、何アホなこと言ってるのよ。幽霊なんてそんな……足だってちゃんとあった……。」
 そう言いながら、私は視線をアイツの足元に向け、絶句した。アイツの足がない。膝から下は半透明で、足先は完全に見えなくなっていた。
「嘘……。」
 慌てて目をこすって、何度も瞬きをしたが、アイツの足はやはり見えない。
「そろそろ限界かな。」
 私の驚きとは正反対に、当の本人は落ち着いた様子で言った。
「げ、限界って……。」
「タイムリミット。そろそろ成仏しなきゃいけないみたい。」
 そう言ってアイツは笑う。
「な、何言ってるの? 成仏って何よ。」
「死んだ人が幽霊になるのは、この世に思い残したことがあるからなんだ。オレはもう十分、思い残したことを出来たから……もう、いかなくちゃ。」
 アイツは穏やかに言った。アイツの説明は根本からおかしかった。そもそも幽霊なんてこの世に存在しないのだ。私は基本的に、幽霊や超能力やUFOと言ったものは信じていない。しかし、実際、目の前には身体の透けたアイツがいる。どういうトリックのなのか、説明出来る人がいれば今すぐ説明して欲しい。下半身を完全に消してしまうマジックならテレビで見たことがあるが、半透明にするマジックは未だお目に掛かったことがない。
「待って。いつから幽霊なの? いつ死んじゃったの? 何で? どうして私のところなんか来たわけ? 呪いたかったの?」
 私は混乱したまま慌てて一度に質問した。
「梨菜と街で会った時にはもう死んでたかな。街で梨菜を見つけたのは偶然。もちろん、呪う気なんかないよ。」
 アイツは笑いながら言った。
「おかしい。絶対におかしい。幽霊なのに物に触れたり出来るなんて変よ。さっきまで足だってあったんだから。」
 幽霊が物に触れられないとか、足がないとかいうのがそもそも迷信だということは百も承知だったけれど、私はどうしても目の前のアイツが幽霊だとは信じられなかった。アイツの言うことをそのまま信じるならば、私はこの二、三ヶ月の間、ずっと幽霊と会話をしていたということになるのだ。
「物に触れられるのは思いの強さの分だけ霊が実体に近付くからだよ。オレはもう思い残すことがなくなって、何だか身体も透けて来たけど。」
 笑いながら言うアイツの身体が、足先だけではなく徐々に透けて行く。
「ダメ。やっぱりこんなのおかしい。幽霊なんて信じないわよ、私。どうせ何かのトリックよ。あるいはこれは全部夢なのよ。絶対そう、そうに決まってる!」
 私はそう言って勢いよく椅子から立ち上がった。
「うん、信じてくれなくても良い。夢でも良い。でも、オレは、最後に梨菜に会えて良かった。楽しかったよ。死んでから色んな人に会いに行ったけど、幽霊のオレが見えたのは梨菜だけだった。」
 アイツはどこか悲しそうな笑顔を見せて、そっと私の頬に触れた。ひんやりと冷たい。生身の人間が触れるのとは違う、まるで冷たい空気が触れているようなそんな感覚だった。
「……祐……樹……。」
 信じないと言ったはずなのに、急に目の前の出来事が全て現実に思えて来た。アイツが生身の人間でないこと、これが夢ではないことを、私は直感的に感じていた。
「梨菜ちゃんはずっとぼくの憧れだったんだよ。」
 アイツが言った。小学生の頃と同じ、円らな瞳が優しく私を見つめている。
「元気で明るくて、友達もいっぱいいて……。いつも、一生懸命だった。そんな梨菜ちゃんのことが羨ましくて……大好きだった。だから、逃げないで。夢、諦めないで。ぼくは一生懸命な梨菜ちゃんが大好きだから……。今でも……大好きだから。」
 アイツの唇が私の唇と重なって、私はそっと目を閉じた。拒絶しようと思えば拒絶できたのかもしれない。でも、私は自然とアイツを受け入れていた。
「ありがとう、梨菜ちゃん。」
 アイツの唇が離れて、私がそっと目を開けると、そこには誰もいなかった。窓辺の白いカーテンが静かに風になびいているだけで、アイツが窓枠に置いたはずの靴もなくなっていた。
「祐樹……君。」
 私はそっと自分の唇に触れた。ひんやりとした感覚がまだはっきりと残っていた。

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