ここち

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君は風のように


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 初夏の爽やかな風が白いレースのカーテンを揺らすある晴れた五月の日曜日。窓の外には瑞々しい若葉が輝いている。
 私は、午後のティータイムを素敵に過ごそうと、今朝、庭で摘んだばかりのローズマリーでハーブティーを淹れようとしているところだった。
 毎週、日曜の午後にはこうして独りでハーブティーを楽しむ。友人を招いたり、買い物に出掛けたりすることもあるが、日曜の午後はゆっくりとハーブティーを味わうのが一番いい。
 今日は幸いにも、仕事熱心な父が日曜にもかかわらず、仕事を残しているからと朝早くに家を出てしまった。母も毎週のことながら、近所の奥様方とフィットネススクールに出掛けている。午前中に家を出た母がまだ帰って来ないのは、熱心に運動に励んでいるからではなく、熱心におしゃべりに励んでいるからだ。スクール近くのイタリアンレストランで、レッスン後に仲良しの奥様方と前菜からデザートまで食べてくるものだから、当初の目的だったダイエット効果は未だに確認できていない。
 しかし、おけげで私はゆっくりと誰に気兼ねすることなくハーブティーを味わうことができるのだから、文句を言うつもりはまるでなかった。むしろ不干渉な両親には感謝しているくらいだ。
 高校三年生、受験生になった私にとって、こうして独りでハーブティーを楽しむことは、ささやかな楽しみであると同時に、貴重な息抜きでもあった。
 私がハーブに凝り出したのは小学校の三年生の時のことだ。クラスメートの家に招かれた時、生まれて初めてハーブティーを飲んだ。その時は、特別おいしいとも思わなかったし、むしろ、独特のにおいは苦手にすら感じたくらいだが、ただ、ハーブティーを淹れてくれたそのクラスメートの母親には憧れていた。ハーブティーが飲みたかったわけでもハーブを育ててみたかったわけでもなくて、ただ憧れの女性と同じことをしてみたかったに過ぎない。
 私はそのクラスメートの母親からハーブの苗を分けてもらい、家の庭でせっせと育て始めた。気が付くとすっかりハーブにはまっていて、今では庭の半分以上が私のハーブ園になっている。ハーブを使った料理も作るようになって、今ではだいぶ腕も上がった。本当にいい趣味を持ったと思う。それもこれも、全てあの人のおかげだ。
 ふと、白いカーテンが不自然に揺れた。
「よっ、元気にしてるか。」
 アイツ――笠原祐樹は今日も唐突に現れた。
 私は露骨に嫌な顔をして見せたが、当の本人は全く気付いていないのか、それとも気付きながら無視しているのか、アイツは「お邪魔します。」の一言もなしで庭からリビングへと入って来た。
「何か……おいしそうな匂い。」
 アイツはくんくんと子犬のようにリビングの中をあちこち見回しながら匂いをかいだ。私はお茶の準備をしながら、オーブンでお茶菓子のクッキーも焼いていたのだ。
「何しに来たのよ。」
 あまりの礼儀知らずな態度にムッとしながら私は問うた。
「ちょっと遊びに……来てあげた。」
 アイツはニコリと微笑んで答える。「来てあげた」という恩着せがましい言い方が癪に障る。わざとなのは明らかだが、あまりにも無邪気な笑顔とテレビのアイドルに勝るとも劣らない整った容姿が相手の苛立ちを緩和させてしまう。尤も、彼の本性を知っている私にこの手は通用しない。
「来てなんて頼んだ覚えはないわよ。それにねえ、来るなら来るでせめて玄関から入ってきたらどう? いつも突然やって来て、しかも、庭からなんて……非常識にも程があるでしょ。」
 私はアイツの顔の前に人差し指をつき立てて説教した。しかし私のお説教はこれが初めてではない。昨日も全く同じことを言った。ついでに言うと、一昨日も……。いや、一昨日彼がやって来たのは、リビングではなかった。庭の植木を登って、窓から私の部屋に乗り込んで来たのだ。泥棒かと思って危うく大声を上げるところだった。この一週間というもの、アイツは毎日私の家にやって来ているのだ。それも玄関以外の間違った場所から……。
「何これ? 葉っぱ?」
 アイツは私の話を聞きもしないで、テーブルの上に置いてあった数本のローズマリーの枝から一本をひょいと拾い上げた。そして、それを指先で器用にくるくる回して珍しそうに眺める。
「ローズマリーよ。ハーブティーにしてこれから飲むんだからさっさと帰ってよね。せっかくの素敵な午後があんたの顔なんか見たせいで台無しじゃない!」
 私はそう言ってアイツの手からローズマリーを奪い返し、その小枝から葉だけを摘み取ってティーポットに移した。
「ハーブティーかぁ。じゃあさ……オレにもいれて。」
 アイツは再びアイドル顔負けの笑顔を見せて、私の向かいの椅子に腰を下ろした。両肘をテーブルについて頬杖をつき、にこにこと笑顔で私を見上げている。
「冗談じゃないわよ。何で私があんたにハーブティーをいれてあげなくちゃなんないわけ? これは私が丹精込めて育てたハーブなの。あんたになんかあげる義理はないんだから。」
 私はそう言ってふいっと首をアイツから背けた。すると、丁度タイミング良く、火に掛けていたヤカンがピーッと甲高い音を立て始めた。私はローズマリーの葉の入ったティーポットを手に取ると、アイツに背を向けてキッチンへ向かう。コンロの火を止めて、ヤカンからティーポットにお湯を注ぐと、白い湯気と共にローズマリーの独特の香りが直接私の鼻を刺激した。この香りを嫌う人もいるが、私は大好きだ。
「うん、いい香り……。」
 思わずそう呟いて、ポットの頭にフタを置いた。ふと振り返ると、アイツは手の平の上でまだ葉を取られていないローズマリーの枝を遊ばせている。「勝手に触るな!」と怒鳴りつけてやろうかとも思ったが、全くもって無邪気なその様に、自分独り苛立っていることが馬鹿らしく思えてきた。私は小さくため息を吐くと、スタスタと真っ直ぐテーブルに向かい、アイツの手からローズマリーを奪った。
「返して!」
「あ……。」
 アイツが一瞬、間の抜けた顔で私を見上げたが、私はそれを無視して再び一直線にキッチンへ戻る。私はアイツから奪い返したローズマリーの枝から葉を摘み取り、その葉をティーポットに足した。アイツの分だ。
 ゆっくりとハーブティーを味わいながらゆったりと午後を過ごしたいのに、迷惑な客が呼んでもいないのに来てしまった。アイツがいると、なぜかいつもイライラしてしまう。目の前にアイツがいたのではゆっくりもゆったりもとてもできそうにない。とりあえず注文通りにハーブティーを出して、とっとと帰ってもらおう、そう考えた。
「ほら、注文通りあんたの分もいれてあげたわよ。そんなに飲みたいなら飲んでみれば?」
 私はキッチンから戻ると、いつの間にかダイニングテーブルを囲む一席に陣取っているアイツの前にティーカップを差し出した。
「ありがとう。優しいな、梨菜は。」
 アイツがお得意のアイドルスマイルで言い、私は心の中で大きく叫ぶ。
 ――騙されない。絶対に騙されないんだから!
 私は自分のティーカップが載ったお盆をテーブルに置き、そっと椅子を引いてアイツの向かいに腰を下ろす。アイツはそっとティーカップの中を覗き込み、
「ちょっと変な匂い。」
 と呟いた。私は、頭の血管が一本、プチッと切れたような感覚に襲われる。でも、ここで怒鳴り散らすほど私は子供じゃない……子供じゃない。
「だったら飲まなくて良いわよ。」
 私は何とか怒りを押さえ込んで言葉を絞り出し、お盆の上のティーカップを自分の目の前に置いた。
「でも、飲んだらうまいかもしれないから……頑張る。」
 アイツは覚悟を決めたかのようにごくんと唾を飲み込み、ティーカップを手に取った。たかがハーブティーを飲むだけで一体何を「頑張る」というのだろう。そこまでして飲んでくれなんて誰も言ってはいないのに……。
 私は呆れてため息を吐いた。そしてアイツよりも先に、自分のティーカップに口をつけ、一口味わう。ローズマリーの独特の香りが広がり、頭の中がすっきりしてきた。しゃきんと背筋が伸びてくる。アイツにイライラさせられている場合ではない。
 アイツの方は、カップを口につけ、一口……ぽたぽたぽた。カップから黄色みを帯びた透明の液体がテーブルに零れた。
「まずいぃ。」
 アイツが涙目になって言う。実際のローズマリーティーの味は、良くも悪くも大したことはない。味以上にその香りが慣れないアイツには合わなかったのだろう。
「ちょっと、何やってんのよ。汚いんだから。」
 私は慌ててキッチンに行って台拭きを取って来た。そして、アイツを押し退けてテーブルの上を拭く。
「人間の飲むもんじゃないと思う。」
 私がテーブルを拭いていると、アイツが漏らした。
「だったら最初からやめておけば良いでしょ。」
 私はパシンとアイツの頭を叩いてやった。
「梨菜がおいしそうに飲んでたからおいしいと思ったのに……。詐欺だ。」
 唇を突き出して、アイツが文句を言った。
「全く。」
 台拭きをキッチンに戻して、私がため息を吐くと、チンとオーブンが鳴いた。お茶菓子のクッキーが焼き上がったらしい。ミトンを取ってオーブンの扉を開けると、おいしそうな香りが一気に溢れ出て来る。私は右手にミトンをはめてオーブンの中から鉄板を取り出した。鉄板の上には、こんがり焼けたクッキーが綺麗に並んでいる。見た目は完璧だ。私はミトンを外して、焼き立てのクッキーをお気に入りのピンクのウサギがついたお皿に移した。
「食べる?」
 テーブルのところへクッキーを載せたお皿を持って行って、私はアイツに訊いた。本当は、お茶を飲んでとっと帰って欲しかったのだが、先程のハーブティーで嫌な思いをさせてしまったことも気になって、私なりに気を遣ったつもりだった。少しは口直しになるかもしれない。ただ、私はアイツが飲みたいといったから飲ませてあげただけであって、私がアイツに嫌な思いをさせたのではない。
「やめとく。また吐きそうだから。」
 アイツはちらりとクッキーを見た後、小さな声で答えた。ローズマリーティーでもううんざりという様子が顔に書いてある。頭のいいアイツは私が家庭科の調理実習で作り出した得体に知れない物体のことを未だに覚えているだろうか。あの時、呆れるクラスメートの中で「料理は見た目じゃないよ。」と率先して味見をしてくれたのがアイツだった。あまりに悲惨な味付けに、さすがにアイツも二口目を試す度胸はなかったようで、未だにアイツが私の料理に対して警戒心を抱いているとしても無理はない。もちろん、私の料理の腕は今や十分に向上していたし、今日のクッキーの出来にも自信があった。
「そう。」
 気遣いが無に帰したことと名誉挽回の機会を失ったことを少し腹立たしく思いながらも、クッキー生地にもハーブを混ぜたことから賢明な判断だと納得する。クッキーには砂糖も入っているし、クッキーに混ぜたハーブはローズマリーと違ってそれほど人に嫌われるような匂いを放ちはしない。だからと言って、要らないというところをあえて勧めてやる必要もない。私としては、アイツにはできる限り早く帰って欲しいのだから……。
 アイツはテーブルに頬杖を突いて、ぼんやりと私がローズマリーティーとハーブ入りクッキーを味わうのを眺めていた。
 私にハーブを教えてくれたのは、他ならぬアイツの母親だったのだが、彼女のハーブ好きはその美貌と異なり、残念ながら息子には受け継がれなかったらしい。小学校三年生の授業参観の後に私がアイツの家に招待された時、確かにアイツも私と一緒に彼女のいれたハーブティーを飲んでいたはずなのだが、ローズマリーティーは初めてだったのだろうか。いや、初めて飲んだあのハーブティーがローズマリーで、アイツも一緒だった。同じ種類のお茶があの時は飲めて、今日は飲めない。一体何が違うのだろう。あの時出されたのはフレッシュではなくドライだったのだろうか。それとも、母親のいれたものなら飲めるけど私のいれたものは飲めないとでも言うのだろうか。確かに、考えてみるとあの時のローズマリーティーは今飲んでいるローズマリーティー程癖がなかったような気がする。初めての私にもあっさり飲めてしまったのだ。他のハーブをブレンドしていたのだろうか、いや……。
 確かあの時、初めてのハーブティーに顔をしかめた私のために、彼女は何かをカップに足してくれたのだ。
「祐樹もいつもこうして飲んでいるのよ。」
 そう言って彼女は微笑んで、何かを……。ローズマリーティーの効果もあってか、脳裏にはだいぶはっきりと当時の光景が浮かぶのだけれど、どうにもそれが何だったのか思い出せない。それが思い出せれば、アイツの飲めるローズマリーティを提供できるのだけれど……なんて考えて、私は即座に自分の間抜けな考えを打ち消した。どうして私がアイツにハーブティーを飲ませるために頭を悩ませなくてはならないのだろう。私が彼女の秘密道具について思い出したいのは、それがハーブティーをより一層楽しむための鍵になりそうだと思うからで、間違ってもアイツのためなんかではない。
「何だったかなあ、あの人がこれに入れてたの。」
 私は思わず声に出して呟いていた。目の前のアイツに尋ねれば、きっとアイツは覚えているのだろうけれど、今のアイツに頼りたくはない。
「梨菜ぁ……つまんない。」
 アイツはぶーっと頬を膨らましてテーブルに倒れ込んでいる。すっかりわがまま坊やになった笠原祐樹は巷の幼稚園児より性質が悪い。あんなに大人しくていかにも「良家の子息」の雰囲気を漂わせていたアイツがこんな風にただの高校生になってしまっているなんて、意外を通り越して呆れてしまう。もしかしたら本当は別人なのではないか。そんな疑念さえ難なく浮かんで来る。
「知るか。」
 私はぶっきらぼうに言い放った。呼んでもいないのに突然押しかけて来て、ハーブティーを飲みたいとせがんだ挙句、まずいと言って放り出し……とてもじゃないが付き合っていられない。
「もう、とっとと帰んなさいよ。」
 私は、ため息混じりに呟いた。
「じゃあ、帰る。」
 突然、アイツが立ち上がった。
「え? ちょっと、何もそんないきなり……。」
 帰って欲しいと思いながら、こうすんなり帰られると何だかそれも嫌だ。絶対に口には出せないが、少し……寂しい。
「……やっぱり。」
 アイツがくるりと振り向いた。笑顔だ。憎らしいほどの。
「な、何よ、やっぱりって……。」
 立ち上がりかけた私が尋ねると、
「オレがいないと寂しいんだろ、梨菜は。」
 アイツはにっこりと笑った。完全に計算している。
 心の中を読んだかのようにはっきりと言い当てられた悔しさと恥ずかしさ、そして相変わらずの私の神経に触るようなこの言い方、再び頭の血管がプチッと音を立てて切れるのを感じた。そして、我慢することを考える間もなく、
「バカ! とっとと帰れ!」
 と、私は椅子の上に乗っていた小さなクッションを取り上げて、それを思いっきりアイツに向かって投げつけていた。
「うわっ! やめろ。分かった、帰るよ、帰る。」
 もう一つお見舞いしてやろうと隣の椅子からもクッションを取り上げて構える私に、アイツは慌ててそう言った。そしてリビングから庭に下りると慌てて靴を引っ掛けてそそくさと帰って行く。この一週間近く、アイツが玄関を使ってうちにやって来たことは一度もない。
「あ、そうだ。」
 帰ったと思ったアイツが再び戻って来て、庭から顔だけ覗かせた。
「え?」
「また、来るからな。」
 アイツはにっこり笑ってそう言うと、今度こそ本当に帰って行った。
「来なくて良いわよ!」
 そう返してやったが、少し……嬉しい。そう思って、慌てて私は首を振った。あんな奴が来ても全然嬉しくない。突然やって来て人の感情逆なでして帰って行くだけなんだから……。
「全然嬉しくない!」
 思わずそう叫んで、私はドスンと椅子に腰を下ろした。
 風がふわふわとカーテンを揺らしている。その向こうでは、私の育てたハーブもよそよそと気持ち良さそうに揺れている。
 私は少し冷めてしまったローズマリーティーを口にしながら、ハーブ入りクッキーに手を伸ばした。悪くない午後だと思いながら。

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