ここち

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君は風のように


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 「梨ぃ菜ぁ。どうしたのぉ? 浮かない顔してぇ。」
 教室でぼーっとしていると、由美が私の顔を覗き込んで来た。
「え? べ、別に、ここんとこ天気が悪いからかな。嫌だよね、雨って。鬱陶しくてさ。」
 私は笑った。窓の外は雨。朝のニュースに出て来た天気予報士の言うことが本当なら、梅雨明けはもうすぐのはずだった。
「嘘だぁ。そんな顔じゃないよぉ? 分かった、祐樹君でしょ!」
 由美は私をじっと睨みつけた後、ポンッと手を打った。
「な、何でそこでアイツが出て来るのよ。」
 私は慌てて言った。由美の言ったことが完全な的外れでもないから、余計にどきりとしてしまう。
「だって梨菜、全然祐樹君のこと由美に紹介してくれないしぃ、何だかんだ言ってやっぱり梨菜は祐樹君のことが好きなのかなぁって、由美は思ってたよぉ?」
 由美はあごに人差し指を当て、僅かに首を傾げながら言う。
「な、何で私があんな奴のこと、好きにならなきゃいけないのよっ。」
 すぐにそう言ったが、なぜか心臓の鼓動が速くなる。
「だったらぁ、早く由美に紹介してよぉ、祐樹君。」
 由美はにっこり笑って言った。
「でも、やめておいた方が良いと思うよ? 親友として忠告させてもらうけど、あんな奴と知り合いになっても面倒なだけよ。付きまとわれて大変なんだから。」
 私は早口で言った。
「梨菜は付きまとわれてるの? 祐樹君に。」
 由美きょとんとして円らな瞳をぱちぱちと瞬かせた。鋭い突っ込みだ。普段、ぼけーっとした顔で脳天気に話をしている彼女だが、時々とんでもなく鋭い。語尾を伸ばすのんびりした口調も相手を油断させるための計算された手段なのではないかと疑ってしまう程だ。
「べ、別にそうじゃないけど……。」
 私は出来るだけ平静を装って言った。由美の前では小さなミスが命取りだ。
「じゃあ、梨菜は何でそんなに浮かない顔をしてるのかなぁ?」
 由美はにっこりと笑って再び尋ねて来た。これは明らかに何かを狙っている顔だ。うろたえてはいけない。相手のペースに乗せられないことが肝心だ。
「だから言ったでしょ。雨ばかり続いて憂鬱だなって。」
 私は苦笑しながら答えた。
「嘘! 梨菜、祐樹君とケンカしたんでしょぉ。それで、仲直り出来なくて困ってる!」
 由美は人差し指を立てて得意げに言ったが、それはちょっと違う。
「ケンカなんかしてないわよ。ただ、アイツが余計なこと言うから……。」
 私は思わず口走りそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。
「え? アイツって祐樹君? 祐樹君が何を言ったの?」
 私の失敗を突いて、由美は興味津々で聞いてくる。
「いや、別に大したことじゃないから。」
 私は出来るだけ動揺を隠して言った。ここで由美のペースに乗せられてしまうわけにはいかない。
「えー、何ぃ? 何なんのぉ?」
 しつこく尋ねてくる由美に、私は危機を察知していた。その時、担任の先生が教室に入って来て声を掛けた。
「ほら、席に着けー。ホームルーム始めるぞー。」
 いつの間にかチャイムがなっていたらしい。神様は私に味方した。
「先生、タイミング悪いぃ。」
 由美はむすっとして呟いたが、私からすれば、素晴らしく良いタイミングである。
「後でちゃぁんと続き、聞くからねぇ。」
 由美はそう言って渋々自分の席へと戻って行った。私は笑顔で手をひらひらと振る。由美は時々妙なところで記憶力が良いけれど、基本的に移り気で、ある意味では人並み以上に忘れっぽい。「後で」と言ってもその先はないのが常である。ホームルームが終わったら「後で」と言ったことなど忘れて、また別の新しい話題を持ってやってくるに違いない。とにかく私は救われたのだ。
 私は小さくため息を吐いて、窓の外を見た。雨も風も決して強くはないが、しとしとと降り続く雨は止みそうにない。
 未だにアイツは毎日私の家へやって来る。そして来る度に、私にファッションデザイナーを目指すようさりげなく勧めるのだ。
 昨日もそうだった。

「裁縫くらい、誰か出来る人に頼んで教えてもらえば良いじゃん。友達とかさ。」
 アイツは平然と言った。
「そういう人がいれば良いけどね。」
 私はラベンダーティーをカップに注ぎながら言った。もちろん、アイツの分はない。どうせまた吐き出されてしまうのだ。摘み立てのラベンダーでいれたお茶はハワイアンブルーをしていてとても綺麗だ。時間が経つと空気中の酸素と結合して茶色く変化してしまうのが残念だった。
「探せばいるよ、きっと。手芸部の人とかさ。」
 アイツはそう言ったが、残念ながら、私の学校に手芸部はない。家庭科クラブもない。
 私がアイツの案を即座に否定すると、祐樹はしばらく考えていたようだが、しぶとく返してきた。
「でも、探せば器用な人の一人や二人いると思うけどな。」
 確かに、アイツの言う通り、器用な人はたくさんいるだろう。裁縫の得意な人もいるはずだ。しかし、一番の問題は、その人が協力してくれるかどうかだ。ただの顔見知り程度ではとても頼めない。私はアイツと違ってそこまで図々しくはなれないのである。協力を得るために、自分の夢について話をしなければならないのも問題だった。ファッションデザイナーになりたいだなんて……身の程知らずも良いところだと私が自分で笑いたい。
 私はラベンダーティーをゆっくりと口に運んだ。このところアイツのせいで大分イライラさせられているから、鎮静作用のあるラベンダーティーを選んだのである。
(うん、おいしい。)
 私がゆっくりとティーカップをソーサーに戻すと、アイツは何か閃いた様子で立ち上がった。
「だったら本屋に行って洋服の作り方の本を買って来る! きっと売ってるよ、初心者向けの。最近のミシンってほとんど全自動なんだろ? 今から練習すれば、相当な不器用でない限り、洋服作るくらいすぐにできるようになるよ。」
 アイツはにこにこと笑っている。悪気はないのかもしれないが、発言の内容は明らかに私を馬鹿にしている。せっかくのラベンダーティーも一口飲んですぐに効果が現れるわけではないのか、私はすくっと椅子から立ち上がった。
「だったらあんたがやってみなさいよ!」
 私はそうアイツに向かって怒鳴りつけ、アイツは逃げるようにして帰って行った。いつもの通り、「また来るから。」と言い残して……。

「はい。」
 窓の外から視線を戻すと、突然目の前に白い紙が差し出された。
「進路希望調査用紙?」
 白い紙の一番上に書かれた文字を私は読み上げた。
「来週までに出せなんてさ、私、まだ志望校決まってないのにどうしようって感じ。嫌だよね、受験生なんてさ。」
 私の前の席の子が小さく笑った。
 私の志望は決まっていた。自宅から何とか通える距離にある国公立大の法学部が第一志望。他は滑り止めに私立大を数校受験するつもりでいた。目指すは公務員である。
 そう、私の志望は決まっていたのだ。アイツが余計なことを言うまでは……。
「ちゃんと親御さんと相談しておくんだぞ。夏休み前に三者面談だからな。」
 先生の声が、胸の奥にもやもやとした黒い雲を作り出していた。

「梨ぃ菜ぁ。」
 ホームルームが終わると、すぐに由美が私の席へやって来た。
「ねえ、梨菜はもう進路決まってるのぉ?」
 私の予想通り、由美はホームルームの前に話していたことなどすっかり忘れている。
「え? あ、まあ……。」
 私は曖昧に答えた。私はずっとそのことで悩んでいた。
「由美はもう決まってるの?」
 私は由美に突っ込まれない内に、早々に話題を由美に返す。
「うん。由美は花嫁修業だよ!」
 由美は自信満々の表情で答えた。
「は、花嫁修業?」
 突然飛び出た「花嫁修業」という言葉に、私は危うく椅子から転げ落ちるところだった。
「うん。大学の家政科に行ってねぇ、お料理とかお裁縫とか極めるんだよぉ。お母さんにも由美はお嫁さんの才能があるって言われてるんだからぁ。」
 由美は嬉しそうに話すが、「お嫁さんの才能」というものが一体どういうものなのか、私には分かるようで分からなかった。
「一応、大学は行くわけか。」
 突然「花嫁修業」などと言い出すものだから、一体何を考えているのかと思ったが、どうやらまともな路線のようで安心した。まさか既に「花婿」がいる……なんてことはないと思っていたけれど……。
「うん。いっぱい合コンして花婿さん見つけなきゃいけないから!」
 由美は片手でガッツポーズをしながら気合を入れた表情で言った。彼女は一体どこまで本気なのか時々分からなくなる。でも、たぶん、彼女はいつも本気なのだ。
「女優になったりはしないんだね。」
 私は呟いた。由美は演劇部でもスターである。普段ののんびりした由美と、舞台に立った時の由美は全くの別人で、舞台でライトを浴びている彼女はまさに演じている役そのものになりきっていた。可愛らしい少女の役も、恐ろしい魔女の役も、自由自在にこなしていたのである。そんな彼女だから、将来はもしかしたら大女優になるのではないか、私はそんな気がしていた。
「うん、それもなる。」
 由美はにっこりと笑って言った。
「え?」
「大女優になってぇ、カッコイイ俳優さんと結婚してぇ、ファンに惜しまれつつ引退してぇ、家事も育児も頑張ってぇ、『由美は美人だし、演技もお料理も上手だね。』ってお婿さんに言われるようなお嫁さんになるのぉ。」
 由美は両手を組んで瞳を輝かせながら空を見上げている。
「そ、それはすごいね……。」
 大きな夢を語る親友を前に、私が何とか言葉を吐き出した。
「由美の小学校の頃からの夢なのぉ。頑張って絶対に叶えるから、応援してね!」
 そう言って由美はぎゅっと私の手を握り、私は勢いに押されて頷いた。
 夢に向かって一直線に突っ走れる由美が羨ましい。「お嫁さんの才能」はどうだか知らないが、女優になるための演技力も容姿も十分に備えている。由美のように才能があれば……。私は小さくため息を吐いた。
「それでね、そのためには今から一生懸命花嫁修業をして演技も磨かなくちゃ行けないの!」
「そ、そうだね。」
 私は由美に気圧されながら答える。
「だから、今度の文化祭、由美はお母さんに教えてもらって劇の衣装を自分で作るんだよぉ。」
「え?」
「やっぱり、お嫁さんになるならお裁縫くらい出来なきゃでしょぉ。それにぃ、由美には最後の文化祭だしぃ。もしかしたらスカウトの人が見てるかもしれないからぁ、少しでも綺麗に見えるようにしなくちゃいけないのぉ。」
 由美はご機嫌だ。
「衣装って……服、作るの? 由美が?」
「そうだよぉ。どんなのが良いと思う? 色々考えたんだよぉ。ちょっと待っててねぇ。」
 由美はそう言って自分の席へ戻ると、すぐに薄いクリアファイルを手に戻って来た。
「ほら、見て見てぇ。」
 そう言って由美は手にしていたファイルの中から数枚の画用紙を取り出して、私の机の上に広げた。それぞれの画用紙には色鉛筆でドレスのデザインが描かれている。
「ずいぶん凝ったのを作るんだね。」
 裾の部分が何重にもなった豪華なドレスの絵を見て、私は感心して言った。
「由美のお母さん、お裁縫得意でね、これくらいすぐ作れるわよって。梨菜はどれが良いと思う?」
 由美は嬉しそうに言った。
「うーん、役柄にもよるだろうけど、この緑の奴は良いと思うな。ただ、この前身ごろだけど、レースがついてる部分は小さな花柄の布に替えたら良いんじゃないかな。色はベージュでひだをつけて。きっとそっちの方が大人っぽくて豪華に見えると思うな。あと、この裾の飾りもちょっと重いね。リボンが多過ぎるよ。」
 思わず細かいことまで口走ってしまって、私ははっとして口を抑えた。由美はしばらくポカーンとしていたが、間もなく喜々とした表情に変わった。
「すごい! 梨菜ってばプロみたい! 決めた! 今度の衣装、梨菜にデザインしてもらう!」
「え? でも、私は素人で……。」
「大丈夫! 由美と梨菜が協力すれば文化祭の公演は完璧だよ! 一緒に作ろ。」
 由美は私の両肩にポンッと手を置いて言った。
「一緒に作ろうってまさか……。」
「梨菜がデザインしてぇ、由美と梨菜で縫うんだよ! 大丈夫だよ、由美のお母さんが教えてくれるから! 王子様とかメイドさんの衣装も作らなきゃいけなくてぇ、一人じゃ大変だなぁって思ってたの。」
 由美はにっこりと笑った。もう断る道は残されていないようである。けれど、これは私にとって嬉しい申し出でもあった。今回は、劇の衣装という限定付きだが、アイツの言う通り、とんでもない逸材がこんな近くにいた。由美に、由美の母親に教えてもらえば、何とか洋服作りが出来るようになるかもしれない。そうすれば、自分のデザインした通りの服を作ることも出来るようになるかもしれない。私にもまだ夢を叶える方法が残されていた。
 一時間目の開始のチャイムが鳴って、先生が教室へ入って来た。
「衣装のデザイン、夏休みになる前にどんなのが良いか考えておいてねぇ。」
 由美はウィンクして足取り軽く再び自分の席へ戻って行った。
 私は机の上に置かれた進路希望調査用紙を見つめ、心が揺れた。

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