ここち

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モンブラン通りのスウィートハート

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 東京の西の外れの閑静な住宅街に《お化け屋敷》はあった。お化け屋敷と言っても、昔、恐ろしい殺人事件があって被害者の主人の亡霊が出るというわけではなく、ただの空き家である。西洋風の建物と荒れ果てた庭から、いつの間にか近所の小学生たちが《お化け屋敷》と呼ぶようになったのだ。窓の向こうに火の玉が浮かんでいるのを見たなんていうかわいらしい噂話はいくつかあったが、そんなものを律儀に信じていたのは小学生までのことだ。高校生にもなって、本当にお化けがいるなんて思わない。サンタクロースだって来なくなったのだ。
「ケーキ屋さんになったの?」
 教室の隅で冷凍食品詰め合わせ弁当を食べながら、私は聞き返した。
「そう。けっこう前から改装工事をしてたみたい。昨日、うちのお母さんが《お化け屋敷》の前を通った時、そこのオーナーパティシエと話したんだって。」
 早々にお弁当箱を空にした智子は、カップに残った麦茶も綺麗に飲み干してしまう。
「お母さんの目を信じるなら、そのオーナー、若くてかっこいいらしいよ。」
 智子は嬉しそうに言って空のお弁当箱を手早く片付け、身を乗り出した。
「今日の放課後、行ってみない? 今日はバスケ部の練習も休みだからさ。」
 智子の誘いに私は二つ返事で頷いた。
 全国大会出場を目指して熱心に活動しているバスケ部所属の智子と違い、文芸部所属の私の放課後のスケジュールは基本的にいくらでも融通が利く。三年生の先輩が受験勉強のために顔を見せなくなってから、まともに活動している部員は私だけなのだ。本来なら、熱心に活動して新入部員獲得に精を出すべきなのだろうが、この期に及んではそれも手遅れだ。そもそも顧問が「部活は好きな人が好きにやればいい」という方針を掲げているのだから仕方がない。
 私は、親友の智子と一緒に帰るために、文芸部の活動日を智子が所属するバスケ部の活動日に合わせることにしていた。図書室の隅に張られた文芸部の活動日を示す貼り紙には、「バスケ部と同じ」と書いてある。書いたのは、私ではなく智子だったが。

 放課後、ホームルームが終わると同時に、私と智子は教室を飛び出した。より正確に言うなら、教室を飛び出した私を智子が慌てて追いかけてきた。
「そんなに急がなくたって店は逃げないよ。」
 智子が呆れながら言うが、お店が逃げなくても、商品のケーキが売切れてしまう可能性はある。お財布の中身にはあまり自信がなかったけれど、若くてかっこいいパティシエが作るケーキがどんなものか気になって仕方がなかった。辛うじて都内ではあるものの、ここは東京の西の外れの辺鄙な住宅街で、テレビや雑誌で見るような綺麗なケーキを売っているお店はない。ごくごく稀に、酔っ払った父が有名店のケーキを手土産に帰ってくることはあったが、間近に迫った私の誕生日に食べられるのは、今年も例年通り、母が近所のスーパーで買ってくるお買い得ケーキに決まっていた。新しいケーキ店ができるということは、この冴えない恒例行事を変えるチャンスがやってきたということである。ケーキがどんなものか確かめて、綺麗でおいしそうなケーキが見つかれば、誕生日前にしっかり母にリクエストしておかなくてはならない。
 私は《お化け屋敷》のシンボルだった巨大な栗の木の姿を目に留めると、逸る気持ちを押さえきれずに駆け出した。私は栗の木が見下ろす角の先を確認することもなく曲がり、そのまま勢いで《お化け屋敷》の門を通り過ぎそうになった。
「きゃっ!」
 突然、足元に降りかかった冷たいものに驚いて、私は悲鳴を上げた。何しろ場所は《お化け屋敷》の前なのだ。幽霊に足首を掴まれたのではないかと非科学的な想像が頭を過ぎる。
「ご、ごめん。大丈夫?」
 慌てたような声が恐る恐る掛けられたのは、冷たいものの正体を幽霊ではなくただの水だと認識するのとほぼ同時だった。振り返ると、若い男の人がうろたえた様子で青いバケツと杓を手に立っていた。どうやら玄関先に水を撒いていたらしい。気温を下げるための打ち水と言うには季節外れだから、風が乾燥した砂を舞い上げるのを防ぐためか、掃除でもしようと思っていたのかもしれない。
「え、あ、だ……えーっと。」
 大丈夫だと答えかけた私は、水をまともに浴びた右足が靴下からスニーカーの中までびっしょり濡れているのを感じ、躊躇った。よく見ると制服のスカートの裾にも水が跳ねている。
「美緒ー? 勢い余って通り過ぎちゃわないでよー。」
 私が返答に窮していると、私の後を追って智子が曲がり角から現れた。
「って、あんた何やってんの?」
 片足に水を浴びたそのままの姿勢で固まっている私を見ると、智子は怪訝そうに顔をしかめた。
「いや、僕が彼女に水を掛けてしまって……。」
 男の人は中腰姿勢のままで智子を見、申し訳なさそうに私に視線を戻した。
「ただの水だから染みにはならないと思うけど……あ、でもすぐに拭かないと冷たいね。タオルを持ってくるから、玄関で待ってて。」
 男の人はバケツと杓をその場に残し、慌てた様子で家の中へ戻っていった。
「水も滴るいい女。」
 突然、智子が呟く。
「何なら代わりますか、智子さん。秋口の水浴びは冷たいですよ。」
 私は智子を睨みつけながら言った。
「いや、結構。しかし、噂ほどではないわね。いまいち頼りなさそうで好みじゃないわ。」
 智子は両腕を組み、男の人が戻っていった家を向く。
「へ?」
 私がきょとんとして首を傾げると、智子は呆れたようにため息を吐いた。
「ちょっとちょっと、私たちはあれを見に来たんでしょうが。」
 智子は腕を組んだまま、人差し指を立てて家を指差した。
「あれ?」
「ケーキ店になった《お化け屋敷》とそのイケメンパティシエ。ここがそのケーキ店で、あの頼りなさそうな男がパティシエでしょうが。」
 呆れた様子で智子に言われ、私は「あ。」と短く声を上げた。突然水を浴びた驚きで、私はすっかり当初の目的を忘れていたのだ。しかし、私が当初の目的を忘れたのは驚きのためだけではない。《お化け屋敷》があまりにも綺麗に改装されていたためだ。
 雑草まみれだったはずの庭には暖色の葉が落ち、秋色に変わっている芝に彩りを添えていた。小さな館の壁は塗り替えられたばかりで新築のようだが、門から玄関まで敷き詰められたレンガや玄関周りの木材はちょうどいいアンティーク感を漂わせている。
「すっごーい。全然《お化け屋敷》じゃないよ。」
「そりゃあね。《お化け屋敷》のままだったら私も誘ったりしないから。」
 心から感嘆の声を上げている私に対して、智子は冷ややかに応じた。パティシエらしい男の人が自分の好みのタイプでなかったために興味を失ってしまったのかと思ったが、小さな洋館へ目線を向ける智子の口端は笑っている。パティシエが好みでなくても、店の雰囲気は好みらしい。
「ごめんっ。」
 ダークブラウンのシックな扉が勢いよく開いて、先程の男の人が白いバスタオルを抱えて駆け戻ってきた。
「とりあえずこれで拭いて……。」
「あっ、やっ、自分でやりますから!」
 男の人がバスタオルを広げてしゃがみ込んだものだから、私は慌ててそれを制して、バスタオルだけ受け取った。
「あ、ああ、そうだよね。ごめん。」
 私が濡れた足を拭き始めると、男の人は手持ち無沙汰な様子でおろおろしながらその場に立っていた。
「水撒きしてたんですか?」
 私はとりあえず濡れた足を拭き終わると、顔を上げてうろたえている男の人に声を掛けた。濡れた靴の中はまだ気持ちが悪かったけれど、これはバスタオルではどうしようもない。家に帰ってからドライヤーでも当てて乾かそう。
「え? あ、ああ、まあ……。」
 突然声を掛けられたことに驚いたのか、男の人はどもりながら答える。智子がこの人を「頼りなさそう」と評価したことにはやはり私も同意せざるを得ない。線が細いからそれほど大きくは見えないのだが、背は高く、平均よりも低い私は間近に立たれると大きく頭を後ろへ傾けなくてはならない。
「ここ、ケーキ屋さんになるんですよね?」
 私がこう尋ねると、ぱっと男の人の表情が変わった。
「うん。僕の初めてのお店なんだ。改装に時間が掛かっちゃったけど、やっと明日オープンできるんだよ。」
 男の人は嬉しそうに話す。
「明日……ですか。」
 智子の話しぶりからてっきり既にオープンしているものと思ってやってきた私は、話が違うんじゃないかと智子を見た。智子は口元に手を当てて、そうっと視線を逸らす。元々の情報源は智子のお母さんだが、智子の様子からして、これは開店日を確認をしなかった智子の責任と考えてよさそうだ。
「そうだ。よかったら、ケーキ食べていく? オープンは明日だけど、さっき試作品を作ったところだから。」
 男の人は突然ポンッと手を叩くと、少し前のうろたえた様子とは打って変わって明るく言った。
「え? でも……。」
「僕ひとりじゃ食べきれないし、水を掛けちゃったお詫びに。靴も濡れちゃっただろ? 食べてる間に乾かせると思うんだ。お友達も一緒に、ね。うん、それがいいよ。」
 男の人は既に決め込んでいるらしく、躊躇っている私に背を向けて玄関へと歩き出す。私はバスタオルを手にしたままどうしようかと智子を見た。
「ほら、何やってんの。行くよ。」
 智子は嬉しそうな笑顔を見せて、ぐいと私の腕を引く。引っ張られた先は、自宅の方向ではなく、元《お化け屋敷》の玄関の方。
「あ、あれ?」
 私よりも慎重であるはずの智子の予定外の行動に驚き、私は二三歩よろけて智子に続く。
「せっかくただでケーキを食べさせてくれるって言うんだから、行くしかないでしょ。」
 智子の動機が新しいケーキ店の商品に対する純粋な興味にあるのか、それとも「ただ」というところにあるのかはよく分からなかったけれど、私は智子がバスケ部のエースを務める私よりずっとアクティブな女の子だということを思い出した。

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