モンブラン通りのスウィートハート
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ダークブランの家具で統一されたシックな店内にはゆったりとしたクラッシック音楽が流れている。私は両肘をテーブルに載せて、組んだ手の上に顎を載せながら耳を傾けていた。
間もなく一周年を迎える《ル・モンブラン》では、今日も近所の奥様方や中高生がおいしいケーキを食べながらおしゃべりを楽しんでいる。
「顔が緩んでるよ、美緒。」
私の向かいに座った智子は呆れ顔で指摘するが、それを聞くまでもなく私は自分の状態を理解していた。しかし、私が意識して緩んだ顔を元に戻そうとしたところで、またすぐに顔は自然と緩んでしまう。
何しろ、今日は特別なのだ。この一年間、ほぼ毎日のように《ル・モンブラン》に通い続けて、やっと念願の叶う日が来たのである。
開店前日に特別に食べさせてもらったモンブンランを、ついに再び味わえることになったのだ。一年待って、《お化け屋敷》のシンボルからケーキ店《ル・モンブラン》のシンボルに変わった大きな栗の木は、去年に負けない大きな実をたくさんつけてくれた。
特製モンブランはまだ店頭には並んでいないが、緑色の毬が枝に見え始めて頃から、「もうすぐですね。」と言い続けたせいか、私は今年一番に栗山さんのモンブンランを味わえる光栄を授かったのだ。これまでにも栗山さんの新作ケーキを一番に賞味する機会はあったが、今回は特別だ。今日のモンブランには一年分の期待が掛かっている。もしもモンブンランに心があったなら、彼――だか彼女だか分からないけれど――はさぞプレッシャーを感じたに違いない。
「そんなにモンブランがいいかねえ。」
智子は相変わらず呆れた様子で漏らす。智子も私と同じく、開店以来の《ル・モンブラン》の常連客だが、私ほどモンブランにこだわってはいないらしい。モンブランよりチョコレートケーキの方が好きだとあっさりのたまっている。
「あのモンブランは特別だよ。私、感動したもん。」
「それはモンブランの味に? それとも栗山さんのマザコンぶりに?」
智子は片肘をテーブルに突いて、私を斜めに見上げながら笑った。栗山さんのモンブランがお母さんの味を再現したものだと言う話を聞いて以来、智子は栗山さんをなよなよしたマザコン男≠ニ決め付けている。さすがに本人の前では口にしないが、事ある度に、それで私をからかってくるのだ。
「モンブランの味に! 栗山さんはマザコンじゃないから。」
私は拳でテーブルを叩いて言い切った。
栗山さんの話を聞いている時、栗山さんがお母さんを大好きなんだと言うことはよく分かった。けれど、それは栗山さんがとても優しい人だからだ。栗山さんの話はすごく温かい感じがした。
「栗山さんはすごく優しい人なんだよ。」
私が呟くように言うと、智子は顔の前で両手を合わせて私を拝んだ。
「な、何よ?」
「ごちそうさま。」
智子はにこっと笑って僅かに首を傾げる。
そうなのだ。智子が栗山さんをなよなよしてるとかマザコンだとか言うのは、栗山さんの悪口を言いたいわけではない。智子に反論して栗山さんをフォローしようとする私をからかっているだけなのだ。それが分かっていながら、一々反論してしまう私も情けない。
元々、智子の言葉に丸め込まれることの方が多かった私だけれど、この一年は特に、智子に対して立場が弱くなったような気がする。
同じ失態を繰り返す自分をため息と共に呪いながら、私が再び店の奥へ繋がる扉を見つめると扉は開いた。ケーキとカップを載せた銀のトレイが扉の陰から宙に浮いて現れ、続いて栗山さんの顔が覗く。向けられた笑顔に、私は慌てて下を向いた。
「変わんないねえ、その挙動不審。」
私の反応を見慣れている智子が呆れた声で呟くが、誰よりも自分の挙動不審を理解している私にとって、それは追い討ちでしかない。視線が合うたびに条件反射的に目を逸らしてしまう自分の癖にはだいぶ前から気付いているのだが、直そうと思って直せるようなものではなかった。
「お待たせしました。」
間近に響いた声に、私がハッとして姿勢を正すと、目の前に待ちに待ったモンブランが差し出される。
――そうだ。今日、私はこれを食べるためにここにやって来たのだ。
艶のある渋皮付きの栗に見つめられて、姿勢を正したばかりの私の身体からはゆるゆると力が抜けていく。
「期待を裏切らずに済めばいいんだけど。」
トレイの上の物を全てテーブルの上に並べ終えた後も、栗山さんはすぐには立ち去らずにその場に留まった。一年ぶりのモンブランの味に私は一言感想を述べなくてはならないようだ。
私はさっそくフォークを手に、頂上の栗とマロンペーストをすくい上げた。大きな栗を一口で頬張って、確かに一年前の味を確認する。一般庶民の私の舌はそれほど肥えているとは言えないが、あのモンブランの味だけはしっかり覚えていた。一年間、栗山さんのお店に通い詰めて色々なケーキを食べたおかげで、ケーキの味だけは分かるようになったつもりだ。
栗山さんが神妙な面持ちで私を見つめている。私は十分に味わったモンブランを飲み込んで、口を開いた。
「おいしいです。去年と同じ味だけど、去年よりもっとおいしいです。」
自分の言っていることの矛盾に気が付きながらも、そう言わずにはいられなかった。上品でありながら素朴な味わいは、栗山さんのお母さんの味なのだと知って食べると、より優しさが増すような気がする。
「よかった。ありがとう。」
栗山さんは小さく息を吐いて肩の力を抜くと、微笑んだ。モンブラン自体はプレッシャーを感じなくとも、その作者はやはり客の期待にプレッシャーを感じるようだ。
「ゆっくりしていってね。」
栗山さんはそう一言残して店の奥へと戻っていく。もっと話がしたかったけれど、ケーキの製造から接客まで一人でこなしている栗山さんを長時間留め置くわけにはいかない。《ル・モンブラン》は雑誌で紹介されるような有名店ではないものの、ケーキの味は確かだし、近所の奥様方からは評判の高い人気店になっていた。最近は、奥様方の口コミで噂が広まり、遠方からのお客さんもあるらしい。
ぼうっと栗山さんの背中を追っていると、栗山さんが喫茶コーナーを抜ける前に、ドアベルが鳴った。店の入り口に、小さな子供を連れた年配の女性が姿を見せる。
「あのね、おっきなケーキがいいの。いちごがのってるやつ!」
子供は祖母らしい女性の手を引っ張りながら嬉しそうに声を上げた。バースデー・ケーキでも買ってもらうのだろう。
「いらっしゃいませ。」
栗山さんは丁寧に頭を下げた後、落ち着きのない様子でぴょんぴょん跳ねている子供に声を掛けた。
「苺のケーキだったら、あれはどうかな?」
栗山さんは子供の背に手を添えてガラスケースの前へ促し、ケースの隅に飾られたホールケーキを指差す。
「わーっ、すっごーい。このケーキお花がのってるよ!」
子供は歓声を上げてガラスケースにへばり付いたが、その視線の先にあるのは、栗山さんが薦めた苺のホールケーキではなく、薔薇を描いたホワイトチョコレートをあしらったチョコレートムースに違いない。栗山さんのケーキは全て頭に入っているし、今日、店頭に並んでいるケーキでお花が載っていると言われるようなケーキはそれしかないと、すぐに確信できた。
「あら、もう……すみません。ダメよ、ガラスが汚れてしまうでしょう。」
女性は栗山さんに申し訳なさそうな顔を向け、ガラスにくっついている子供の手を引き離す。
「いや、気にしないでください。好きなだけ見ていいからね。」
栗山さんは素早く女性に返してから、再び腰を屈めて子供の頭に手を載せた。子供の視線はガラスケースの中のケーキに吸いつけられたままのようだが、栗山さんは再び女性へ会釈すると、ガラスケースの脇の低い木戸を押してレジカウンターの中へ入る。見えた横顔はとても嬉しそうだった。
《ル・モンブラン》の客は住宅街の真ん中という立地のために主婦が多いが、子供連れも少なくない。ケーキのおねだりに失敗して騒ぎ出す子供もいるが、栗山さんはいつも笑顔で困り果てた親の代わりに子供をあやしている。
「優しいなあ。」
思わず呟くと、冷たい視線が向けられるのを感じた。視線を向けると、智子がコーヒーを飲みながら呆れた様子で私を見ている。
「な、何か?」
尋ねると、智子はゆっくりと視線を逸らす。
「別にぃー、何かもうからかうのも飽きたなーってだけ。」
智子はカップをソーサーに戻して、モンブランを切り崩し始めた。
「なよなよ男を観賞するのもいいけど、さっさと食べちゃってね。」
見れば、智子のモンブランは既に半分ほどの大きさになっている。私は慌ててモンブランに二口目のフォークを入れた。
「告白しないの?」
私が二口目のモンブランを口に含んだ瞬間、智子が突然口を開いて、私は危うくモンブランを吐き出しそうになった。
「はっきり言って、向こうから告白してくる可能性なんてゼロに等しいよ?」
慌ててモンブランを飲み込んだ私に向かって、智子は続ける。
「わ、私は別にそういうのは期待してないから……。」
嘘ではなかった。栗山さんのことが好きか嫌いかと問われたら、答えは好きに決まっているけれど、だからと言って栗山さんと恋人同士になりたいというわけでもなかった。遊園地でデートをするとか、一緒に映画を見に行くとか、そんなことを望んでいるわけではなかったし、ましてや結婚だなんて想像可能範囲を越えている。
「じゃあ、ずっと単なる店主とお客さんの関係でいいってわけ?」
そう問われて、戸惑った。それでいい、とも思う。この一年間《ル・モンブラン》に通い詰めて、おいしいケーキを食べながらお店の中を行ったり来たりしている栗山さんの姿を見て、それだけで十分満足だった。これからもずっとこうやってお店に通って、栗山さんの作ったおいしいケーキを食べられればいいと思う。
なのに、私は智子の問いに不安になった。正直に言えば、ただのお客さんは嫌だ。できることなら特別なお客さんでいたい。試作品を真っ先に食べさせてもらったり、他のお客さんが少ない時にちょっとおしゃべりをしたり、今のまま、少しだけ特別でいたい。栗山さんが私を特別に思ってくれているかは分からないけれど、私が特別だと思えるならそれでよかった。
「今のままならそれでいいんだ。時々こうやってお店で顔が見られるだけで幸せだから。」
私が答えると、智子は呆れた様子でため息を吐いた。思い立ったが吉日で告白してしまう――そしてそれで上手く行ってしまう――智子には、ただの優柔不断に思えたとしても仕方がない。
「あんたの場合は時々じゃなくて、ほとんど毎日だから。そこんとこ、間違えないように。」
智子は私の目の前に指を突き立てて言った。
ゆっくり時間を掛けて一年ぶりのモンブランを味わい、私たちが会計のために席を立ったのは閉店間際のことだった。店内に他のお客さんはなく、ガラスケースの中のケーキも全て完売している。ケーキを食べるだけならこんなに遅くはならなかったのだが、ぼんやりしたまま栗山さんの「ゆっくりしていって。」に甘えて、長居をしてしまうのはもはや恒例だった。智子も店の落ち着いた雰囲気が好きらしく、私はずっと栗山さんの姿を目で追い続けていることをからかいながらも付き合ってくれる。
レジの前で栗山さんに伝票を渡し、私は自分のお財布の中を覗いた。千円札がたった一枚。毎月のことながら、臨時収入でもないと来月のお小遣いまで持ちそうにない。
「二人とも、それぞれ二百五十円ずつね。」
お財布から最後の千円札を取り出した私は、告げられたあまりにも安い金額に驚いて顔を上げた。
「モンブランは僕の奢りだから。」
栗山さんは笑顔で言って、手早くレジを打つ。私の寂しいお財布の中身に気付いたからではないと思うが、紅茶代だけで済ませるのは申し訳ない。いくら今月のお小遣いが危機に瀕していても、栗山さんに迷惑を掛けるわけにはいかないのだ。
「そんな、悪いです。こないだだって……。」
私は慌てて言ったが、栗山さんはにこりと笑ってレジから出てきたレシートを取った。
「もうレジ打っちゃったからさ。」
そんな言い訳で、私たちはこれまでに何度も新作ケーキをただで食べさせてもらっている。これ以上、栗山さんに同じ言い訳をさせないよう、私は何か策を考えねばならない。
「すみません。」
私は俯いたまま、財布から取り出した千円札を小さな銀色のトレイに載せた。栗山さんの手がさっと千円札を取る。
「気にしないでね。これは僕が好きでやってるだけだから。」
――好きでやってるだけだから。
無意識のうちに頭の中で繰り返された言葉に動揺して、私は顔を上げた。栗山さんが言ったのは、単にそうすることが好きだというだけで、別に私のことが好きだからというわけではもちろんない。そんなことは考えるまでもないのに、私は、自分が何かを期待したような気がして動揺した。
「はい、お釣り。」
栗山さんは、手早くレジから選別し出した七百五十円にレシートを添えて、私の手のひらに載せてくれた。指先が僅かに触れ合って、動揺が緊張に変わる。
「ほら、レジの前でぼうっとしない。」
智子に押し退けられ、私は二、三歩よろけてガラスケースの前に立った。
智子が支払いをしている間に、私は握ったお釣りをお財布に戻す。お財布に残っていたのは百円以下の小銭ばかり。七百五十円のお釣りを足しても千円には届かないだろう。モンブランをただにしてもらったおかげで、今月はあと一度なら《ル・モンブラン》へ来られそうだが、それが限界だ。せっかく待ちに待ったモンブランのシーズンになったというのに、秋風以上に私のお財布の中は寂しい。
「なにため息吐いてんの! 帰るよ。」
智子に強く背中を叩かれ、私は慌ててお財布を閉じた。
「あ、ありがとうございました。」
さっさと店を出て行こうとする智子を追いかけた私は、入り口で振り返って栗山さんに頭を下げた。
「こちらこそ。ありがとうございました。」
栗山さんは丁寧に頭を下げてくれた。
店の外へ出ると、風が冷たい。空は半分以上が夕闇に侵食されている。私は憂鬱な気持ちになって、大きくため息を吐いた。
「どうした、派手なため息吐いて。恋煩いか?」
振り返った智子が、笑いながら聞いてくる。
「どちらかって言うとお金の問題。」
私は再びため息を吐きながら、手にしていたお財布の中を覗き込んだ。何度も確かめたところで、中身が増えるわけではないのだが、そうしないではいられない。
「そりゃあねえ、毎日のようにケーキ食べてたらお小遣いも尽きるって。バイトでもしたら?」
智子は肩を竦めて尤もなアドバイスをくれた。しかし、それは既に一度検討済みなのだ。
「無理だよ。バイトで忙しくなったら、お店に通えなくなるもん。」
私がお小遣いを必要とするのは、《ル・モンブラン》に通うためなのだ。バイトでお店に来れなくなっては意味がない。
「だからぁ、ここでバイトすればいいじゃん。大好きな栗山さんのお店でさ。」
「え?」
予想外の答えに、私は驚いて聞き返した。大好きな≠ェ、栗山さん≠ノ係るのかお店≠ノ係るのかは気になったが、わざわざそれを尋ねて話の腰を折り、からかいを受ける必要もない。
「だって、美緒がお店に来るのって、ケーキよりもあの男が目当てなんでしょう。だったらお店でバイトすればいいじゃん。一人でケーキ作って、接客までしてけっこう大変そうだしさ、一人くらいバイトがいた方が便利だと思うよ。」
盲点だった。《ル・モンブラン》でバイトをすれば、それだけで毎日お店にやって来る口実ができる。
智子に、ケーキよりも栗山さんが目当てだと断言されたのは少々気になるが、お店にいられるなら、バイトの店員でもお客でもどちらでも構わなかった。
「でも、本当に雇ってくれるかな。」
問題はそこである。特にバイト募集の張り紙があるわけでもなく、お客さんも増えて来たとは言え、毎回のように私たちにただでケーキを食べさせているから、バイトを雇うような余裕はないかもしれない。そもそも、私なんかで役に立つのかどうか分からない。
「バイトが無理なら、ただ働きでもいいじゃん。ただでケーキ食べさせてもらってるお礼にお手伝いしますとか何とか言ってさ。美緒は、あの男のそばにいられればそれでいいんでしょう?」
智子はにんまり笑みを浮かべて、私の額を指で突いた。
「わ、私は別に……。」
「単なるお客と店主とは違う関係で付き合ってみたらさ、本当はどうしたいかはっきりするんじゃない?」
智子は反論しようとした私の口元に人差し指を寄せ、私の言葉を遮った。
「どうする? 今から雇ってもらえるか頼んでみる?」
私の肩越しに店を見る智子は、放っておくと、私の返事を待たずに、店へ戻って栗山さんに尋ねてしまいそうだった。
「きょ、今日はいい。もう少し考えるから。」
私は慌てて答えると、店に戻りそうな智子の肩を掴んで百八十度方向転換させ、その背を門へ向かって押し出した。