モンブラン通りのスウィートハート
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翌日、私は再び智子と共に、正式オープンした栗山さんのお店《ル・モンブラン》を訪れた。開店初日はちょうど土曜日で学校は休みだったけれど、バスケ部の智子は朝から練習があり、私たちが店を訪ねたのは昼食後のお腹を休めて小腹が空き始める三時のおやつの頃だった。
店の前へ着くと、門の脇に店名の書かれた看板が立てられている。看板は手作りらしく、ダークブラウンの板の周りに小枝や落ち葉をあしらって、白いペンキの文字が真新しかった。呼び込みの店員がいるわけでもなく、《ル・モンブラン》は昨日と同じように静かな住宅街に普通の住宅のように建っていた。あまりにひっそり建っているものだから、ちゃんとお客さんが来ているのかどうか心配になる。朝刊の折り込み広告もなかったし、宣伝をしている様子はなかった。行列ができているとか、とっくにケーキが売切れてしまっているというのも困るが、全くお客が入らずに店仕舞いなんてことになったらもっと困る。
私は、扉にOPEN≠ニ書かれた札が掛けてあるのを確認して、そっと玄関を開けた。
「いらっしゃいませ。」
扉に付けられたベルがカランと鳴るのとほぼ同時に、明るい声が届いた。正面のガラスケースの奥でぴょこんと白いものが跳ねる。コック帽を被った栗山さんだ。
「あ、昨日の……。ちょっと待ってね。」
栗山さんは私たちに気付いて微笑むと、ガラスケースから手早くケーキを取り出して箱に詰める。どうやら、ガラスケースの横に立っている奥様がお買い上げらしい。
「ありがとうございました。」
栗山さんはケーキの箱を手渡して、笑顔でぴょこんと頭を下げる。私たちは邪魔にならないように入り口から離れ、店を出て行く奥様を栗山さんと共に見送った。
「いらっしゃいませ。」
声に振り返ると、栗山さんがにっこり笑っていた。
「何か食べていく?」
栗山さんはガラスケースの上にやや身を乗り出して首を傾げた。
「あ、はい。」
私はやや緊張して答えたが、智子は既にガラスケースへ近付いて品定めをしている。昨日は空っぽだったガラスケースに、今日は綺麗なケーキがたくさん並んでいた。色鮮やかなベリーの載ったフルーツタルトに、金箔の欠片が載った上品なチョコレートケーキ、ミントの葉を載せた真っ白なレアチーズケーキ。どのケーキも一つ一つ丁寧に作られていることが、素人目にも分かる。
「決まったら声を掛けて。飲み物のメニューはテーブルの上なんだけど……。」
栗山さんが喫茶コーナーを指差して、私は店の奥へと視線を移した。四人掛けのテーブルに三人連れの奥様集団が一組、二人掛けのテーブルにも一組の奥様方が向かい合って座っている。ほとんど宣伝をしていないのにこれだけのお客さんが来ているなら、お店の経営はさほど心配しなくてもよさそうだ。
私は喫茶ーコーナーへ近付いて、一番手前のテーブルに置かれていたメニューを手に取った。透明な板に挟まれたメニューカードは手書きのようで、やや丸みを帯びた楷書体が並んでいる。ドリンクメニューは、オリジナルブレンドのコーヒーと紅茶がそれぞれアイスとホットで用意されていて、紅茶はレモンとミルクも選べるようになっていた。他にミルクやココア、ジュースと一通り揃っているが、ミルクはともかく、甘いケーキを食べるのに甘い飲み物が一緒というのは味が分からなくなりそうだ。
「このホールケーキもここで食べられますか?」
振り返ると、智子はガラスケースの隅に置かれて、他のカットされたケーキよりも明らかに大きい丸いケーキを指差していた。真っ白な生クリームに包まれた土台は、赤い苺やラズベリー、ブルーベリーで飾られていておいしそうだが、明らかに一人分のサイズではない。二人分でも少し大きいくらいだ。
「ちょっと、智子。まさかそれ丸ごと……。」
私は慌てながら、ガラスケースの中の値札に目をやった。千八百円は予想に比べればお手頃な価格だが、既にお財布の中からお札が消えている私には次のお小遣い日までは手の出ない代物だ。
「いいじゃん、この際。一日早いけど、私から美緒への誕生日プレゼントってことで。今日は私の奢り。最初からそのつもりだったんだ。」
智子は私を振り返って笑う。奢ってくれるのは嬉しいけれど、やっぱり少し大き過ぎるような気がして、私は戸惑いながらガラスケースの中のケーキを見た。
「明日がお誕生日なんだ。いくつになるの?」
栗山さんが私に向かって微笑んだ。
「十六です。」
「結婚できる年になります。」
私が俯きながら答えると、隣で智子が付け加えた。
「ちょっ、智子!」
栗山さんがきょとんと目を丸くして、私は慌てて智子の腕を引っ張った。
「お嫁さん候補としてぜひ。」
智子は、私が伸ばした腕を掴み返すと、私を自分の胸の前に押さえ込んで続ける。栗山さんは口元に手を当てながら声を上げて笑っていた。智子の言い方のせいもあるのだろうが、完全に面白い冗談として受け取っている。私のような子供を栗山さんのような大人が本気で相手にするはずはなくて、当たり前のことだ。
私は恥ずかしさのあまり逃げたしたい気分だったが、ここで突然、店を出ていくというのも恥ずかしい上に失礼だ。そもそも、智子を押さえ込むはずが、逆に智子に押さえ込まれて身動きが取れない。私は仕方なく、智子に押さえ込まれたまま床の上に視線を泳がせていた。
「そっか、女の子の十六歳は特別か。じゃあ、僕からもこのケーキをプレゼントをしようかな。明日十六歳になる美緒ちゃんとお友達思いの智子ちゃんに。」
栗山さんは大して考える素振りもなくあさっりとそう言うと、ガラスケースを開けて智子が指差していたホールケーキを取り出した。
「ええ!?」
「わ、本当ですか。」
智子は素直に嬉しそうな声を上げて、私の拘束を解いた。突然解放されてよろけながら、私は智子の辞書に遠慮の二文字を書き足さなくてはならないと確信する。
「そ、そんな悪いです。昨日もモンブランごちそうになったのに……。」
「昨日のは余りものを食べてもらっただけだよ。水も掛けちゃったお詫びもあるし。これはお誕生日のプレゼント。いきなりホールケーキを買って行く人もいないだろうし、売れ残っちゃうともったいないから。飲み物は何がいいかな?」
栗山さんはホールケーキを両手に抱え、にこりと笑う。
「私はコーヒー。美緒は紅茶です。」
私の戸惑いをよそに智子が答える。
「紅茶はレモンでいい?」
栗山さんの問い掛けに、私は仕方なく頷いた。せっかくの好意を拒否し続けるのも失礼だと思ったからだ。
「じゃあ、席に着いて待ってね。」
栗山さんはホールケーキを手にしたまま、木製の扉の向こうに姿を消した。
「今日はついてるね、私たち。」
智子は嬉しそうに言うと、足取り軽く喫茶コーナーへ歩いて行く。私は本当に喜んでいいのか戸惑いながら、ため息混じりに智子について行った。
「栗山さんっていい人だよね。さすが美緒が見込んだだけあるわ。」
昨日と同じ一番奥の窓側のテーブルに腰を下ろして、智子はうんうんと一人頷きながら言った。昨日、栗山さんをなよなよした男≠ニ言ったのが誰だったか思い出させてやりたい。
「でも、ここまで親切にしてくれるって言うのは、美緒、案外、あんた惚れられてるのかもよ?」
智子はテーブルに頬杖を突いてにやりと笑った。一瞬、どきりと心臓が跳ねる。
「まさか。単に人が好いだけだよ。」
動揺を智子に感づかれないように気を配りながら、私は隣の座席にトートバッグを下ろして席に着いた。
そうだったら良いと思う一方で、義務教育を終えたばかりの子供が本気の恋愛対象になるはずがないのだと自分に言い聞かせる。もし栗山さんが本気で私を好きになったとしたら、それはロリコンなのではないかと逆に不安になってしまう。真面目に校則を守っているせいか、最近の子供の巨大化に比して背が低いせいか、これまで年上に見られたことは一度もない。テレビのアイドルを見ていると本当に同い年かと疑いたくなる。
「確かに人の良さは天下一品って感じだね。騙されて借金抱えないように奥さんが気を付けてあげないと。」
智子はけらけらと笑うが、私は反論しても余計にからかわれるだけだと思って黙り込んだ。智子に悪気がないことは長年の付き合いから分かっていたし、この手の軽口はお互い様だ。私は黙って栗山さんが消えた店の奥を見やった。
間もなくして、栗山さんが銀のトレイを手に私たちのテーブルへやって来る。
「お待たせしました。」
栗山さんは微笑んで、コーヒーと紅茶のカップにポット、それからフォークと小さなお皿をテーブルの上へ並べていく。そして最後に、残されていた中央の空間を埋めるように丸いホールケーキが置かれた。栗山さんはホールケーキの載った大きなお皿をくるりと回し、茶色の文字でHappy Birthday≠ニ綴られたホワイトチョコレートの板を私に向ける。この板はガラスケースに入っている時には付いていなかったものだ。チョコレートの文字は手書きのようで、わざわざ私のために用意してくれたらしい。
「うわぁ。」
私は思わず感嘆の息を漏らしてしまった。自分のケーキ≠セと思って見ると、それがガラスケースの中に入っていた時とは違う特別な感覚を覚える。
「四等分でいいかな。」
栗山さんはケーキをまじまじと見つめる私を待っていてくれたのか、しばらくして聞いた。手にはケーキ用のナイフが握られている。
「はい。」
私が頷くと、栗山さんはお皿の縁にそっと手を添えて、僅かに手前へ引き寄せると、ケーキの中央を横切る真っ直ぐな線を入れた。ナイフの刃は温められているのか、触れた生クリームの端を僅かに溶かす。栗山さんはお皿を九十度回し、正面に載っていたチョコレートの板を端へずらして十字の線を仕上げた。
お皿は再び回されて、チョコレートの板が私を向く。
「ごゆっくりどうぞ。」
栗山さんはナイフを銀のトレイに戻すと、右手でトレイを体の横に支えて会釈した。礼儀正しく、あくまでもお客様に対しての態度で。栗山さんが子供相手にもきちんとお客さんとして接してくれることが、私は嬉しくもあり、悔しくもあった。
「お勘定、いいかしら。」
通路を挟んで隣の席に座っていた二人連れの奥様方が、店の奥へと戻り掛けた栗山さんに声を掛ける。
「はい、すぐに。」
振り返った栗山さんは奥様から伝票を受け取ると、ガラスケースの脇に置かれたレジへ足早に向かった。席を立った奥様方がゆっくり栗山さんの後をついて行く。
「さて、それじゃあ頂くとしますか。」
智子が目の前に置かれたフォークとお皿を手に、四等分されたケーキへ手を伸ばす。私はポットの紅茶をカップへ注いだ。カップの中のレモンがふわりと水面へ浮いてくる。私はティースプーンでレモンをすくい上げると、スプーンと共にソーサーに置いた。ケーキを口にするのは、紅茶を一口飲んで渇いた口内を潤し、味覚を研ぎ澄ませてからだ。
智子は早く食べたそうにしながらも、私を待ってくれているようで、フォークを構えたまま私を見つめている。私はチョコレートの板が載った一切れを自分のお皿に取った。切り口から黄色いスポンジに挟まれた赤い苺と白い生クリームが見えている。
「頂きます。」
智子と口を揃えてそう唱えてから、私は一度フォークを置いて、紅茶のカップを口へ運んだ。改めて、取った一切れをじっと見つめると、再び口内が乾き始める。智子が一口目を口に入れるのを視界の端に確認してから、私はやっとフォークをケーキに付けた。一口分を切り分けてそっと口へ運ぶ。
「おいしい。」
ケーキを口に入れ、私はフォークを加えたまま幸せに浸った。ぼんやりと視線を遠くへ漂わせると、栗山さんがこちらを見て微笑んでいる。私は慌ててフォークを下ろし、視線を下へ向けた。
栗山さんは、少しずつケーキを切り崩している私の方へやって来る。二人の奥様は既に会計を終えて店を出たらしく、栗山さんは私たちの隣のテーブルで奥様方の残した食器を片付け始めた。
私は栗山さんの背へ向けた視線をそっと窓の外へ移す。
「そうだ。」
庭に落ちた栗の毬に、私はあることを思い出して、反射的に栗山さんに声を掛けた。
「あの……。」
「ん?」
私の小さな呼び掛けに栗山さんが振り返る。声を掛けた後で私は自分の行動を認識し、軽率な自分の行動を少しばかり後悔した。しかし、だからと言って今更、出した声を引っ込めるわけにもいかない。
「今日はモンブランは売り切れなんですか?」
私は仕方なく、思い付きの問いを続けた。ガラスケースの中に昨日食べたモンブランがなかったのだ。店に来るまで、私はもう一度あのモンブランが食べたいと思っていたのだ。今日のホールケーキも文句なしにおいしいけれど、昨日のモンブランを食べた時の感動はそれ以上で忘れられない。
「ああ、あれはちょっと特別でね。今年はもう無理なんだ。」
栗山さんはテーブルの上の食器を全てトレイに載せると、トレイをテーブルの上へ置いたままそのテーブルに背を向けて、申し訳なさそうに答えた。
「ほら、外に大きな栗の木が見えるでしょう。あのモンブランはあの栗の木の栗を使って作ったんだ。他の栗だとどうしても同じ味にならなくてね。だから、次にあのモンブランが出せるのは来年の秋。」
栗山さんは窓の外を覗きこむようにして庭の栗の木を指差した後、僅かに肩を竦めた。
「そうなんですか。」
「じゃあ、昨日、モンブランを食べられた私たちってすごくラッキーだったんだ。」
コーヒーカップをソーサーに戻して、智子が喜々とした声を上げる。
「あのモンブラン、すごくおいしかったです。このケーキもすごくおいしいけど、私、あのモンブラン、大好きです。来年まで楽しみにしてます。」
私は思わず早口に言った。
「ありがとう。でも、あのモンブランは本当は僕のケーキじゃないんだよ。」
栗山さんは私に向かって微笑み、それからそっと視線を窓の外へ向けた。寂しいようなとても優しい目で栗山さんは栗の木を見つめている。
「あ、いや、作ったのは確かに僕なんだけどね。あれは僕の母のレシピなんだ。」
栗山さんははっと気付いた様子で、笑いながら慌てて胸の前で手を振った。
「お母さんの?」
私がきょとんとしたのに対し、智子は話を聞きながらもフォークでティラミスを口に運んでいる。
「僕は小さい頃、ここに住んでたんだよ。《お化け屋敷》って呼ばれる前のこの家にね。」
栗山さんは笑いながら言うが、ついこの間までここを《お化け屋敷》と呼んでいた身としては、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「栗山さん、知ってたんですか。ここが《お化け屋敷》って呼ばれてたこと。」
智子はコーヒーカップをソーサーに戻しながら言った。問い掛けの中には、よくそんなところを店にしようと思ったものだという呆れに近い驚きが含まれているのかもしれない。
「うん。店の改装状況を見に来た時に近所の奥さんと話したら、こんなお化け屋敷をケーキ店にするなんて変わってるって笑われちゃってね。」
栗山さんの答えに、智子が窓の方を向きながら明らかに顔を歪めた。栗山さんの言う近所の奥さん≠ヘまず間違いなく智子の母親だろう。
「じゃあ、あのモンブランは栗山さんが小さい頃にお母さんが作ってくれたモンブランなんですね。」
私が話を戻すと、栗山さんは頷いた。
「毎年秋になると母が庭の栗の木でモンブランを作ってくれて、それが楽しみだったんだ。僕が小学校を卒業する前に、父が亡くなって、この家も一度引き払っちゃったから、十年以上食べてなかったんだけど、急にまた食べたくなってね。何とか母の味を再現したかったんだけど、市販の栗だと上手くいかなくて、こっちに戻ってきて昨日やっと同じ味のモンブランができたんだ。栗のシーズンはもう終わりだから、今年はお店に出す分までは作れなかったけど。」
栗山さんは懐かしそうに穏やかな表情で話す。
「栗山さんがパティシエになってお母さんの味を再現して、きっとお母さんも喜んでますね。お母さんはお店にはいらっしゃらないんですか?」
私が問い掛けると、栗山さんは僅かに表情を曇らせた。
「来てくれてるといいんだけど……。」
栗山さんは何かを探すようにゆっくりと首を動かして店内を見回す。
「去年、病気で亡くなってね。できることなら一緒に戻って来たかったんだけど……。」
栗山さんの話しぶりで気付くべきだった。お母さんが生きているなら、栗山さんが味を再現する必要なんてないのだ。
「すみません、私……。」
私は自分の気の利かなさを呪いながら言った。
「いや、こっちの方こそ。暗い話になっちゃって……。ゆっくりしていってね。」
栗山さんは後ろのテーブルに残していたトレイを取ると、素早くテーブルを拭いて、店の奥へ戻り掛けた。
「あの……私、あのモンブランは栗山さんのケーキだと思います。その、栗山さんのお母さんの味は栗山さんが覚えている味で、あのモンブランがすごくおいしかったのも栗山さんがお母さんのことを想って作ったからで、あのモンブランは特別な感じがしたから……。上手く言えないんですけど。」
確かに伝えたい≠ニ思うことがあったはずなのに、結局、自分でも何を言っているのかが分からない。
「ありがとう。」
栗山さんは真っ直ぐに私を見て、穏やかに微笑んだ。優しい言葉がこんなにも切なく聞こえたのは初めてだった。
「すみません、お勘定お願いします。」
レジの前で、三人連れの奥様方が栗山さんを呼んだ。
「はい、少々お待ちください。」
栗山さんは明るく答えて、足早にレジへと向かう。
智子に声を掛けられるまで、私の視線は栗山さんの背中に吸いつけられていた。