ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 枕元のデジタル時計を手に取ると、時刻は八時を過ぎていた。私は一瞬慌てたものの、時計の脇のボタンを押して画面を日付表示に切り替える。今日は土曜日だから、学校は休みだ。私はもう一眠りしようとベッドに顔を伏せる。しばらくうつ伏せの状態で寝ていた私は、背中が寒いことに気付いて掛け布団の端を引っ張ろうとして飛び起きた。
 昨日、私は栗山さんに思い切り暴言を吐いてお店を飛び出した後、ふらふらとした足取りで自宅まで帰り着き、そのまま自室のベッドに倒れ込んで眠ってしまったのだ。制服を着替えることも忘れていたらしく、スカートには斜めにしわがよっている。
「最悪だ。」
 私は重い体を両手で支えながら、両足を床へ下ろした。その瞬間、踵で何かを蹴飛ばしたような感触がして、私は、蹴飛ばされた何かが入り込んでしまったベッドの下を覗き込む。携帯電話だった。床に放り出された鞄から零れて、床に転がっていたらしい。手を伸ばして拾い上げると、メールが届いている。差出人は智子で、内容は予想通り、昨日の結果を尋ねるものだった。受信時刻を確認すると、メールが届いたのは昨日の夜のことだ。熱心なバスケ少女は、今日も元気に朝早くから練習に出掛けているはずだった。
 私は閉じた携帯電話をベッドの上に放り投げ、ソファー代わりのベッドに飛び込むように腰掛けた。そっと背中を壁につけ、真っ白い天井を見上げながら、ゆっくりと脳内で昨日のできごとを再現する。
 興奮して何を言ったのかよく覚えていないが、栗山さんに対してひどい暴言を吐いたことだけは覚えていた。謝らなければならない。栗山さんの言動に腹が立ったのは確かだが、そうだとしても私は言い過ぎた。そもそも、私が首を突っ込むべきことではなかったのだ。
 栗山さんがフランスへ行こうが行かなかろうが、私は、栗山さんと栗山さんのお店が大好きだ。あんな喧嘩をしたままでは、この先お店に顔を出すことすらできなくなってしまう。
 そうと決まれば話は早い。今から準備をすれば、開店前にお店へ行って、栗山さんと話をすることができる。私は改めて時計を確認すると、ベッドから飛び降りた。タンスの中から適当な着替えを掴んで、お風呂場へと向かう。いくら急いでいるとは言え、シャワーも浴びず、昨日の服のままで出掛けるわけには行かなかった。
 熱いシャワーを浴びると、重かった頭もすっきりして気持ちも軽くなった。私は気持ちが萎えないよう一刻も早くお店へ行きたくて、濡れた髪を手早くドライヤーで乾かすと、そのまま玄関へ向かった。リビングから香ばしいベーコンの香りが漂ってきて、両親は朝食を取っている最中らしい。
「あら、美緒。出掛けるの? 朝ご飯は?」
 玄関で靴を履いていると、リビングから母が顔を出した。
「帰ってきてから食べる。」
「昨日のお夕飯も食べてないのに、トーストくらい齧っていけば?」
 母の気遣いはありがたかったけれど、私は既にスニーカーの紐を結んでいた。
「すぐに帰ってくるから。」
 私はそう言って立ち上がると玄関を出た。秋の空気は少し冷たかったけれど、空は気持ちのいい五月晴れでジョギングをするにはちょうどいい。
「よし。」
 私はぎゅっと両手の拳を握り締めると、《ル・モンブラン》まで走って行くことを決めた。栗山さんときちんと話をするためには、十時の開店前にお店に着かなくてはならない。栗山さんも開店準備で忙しいはずだから、速ければ早いに越したことはないのだ。私はマンションの廊下を階段へ向かって駆け出した。

 大きな栗の木を目に留めて、私は歩調を緩める。鼓動が早いのはそれまで走ってきたからだけではなく、緊張が高まったからでもあるのだろう。私は大きく深呼吸をして、栗の木の下の角を曲がった。
 角の先を目にした瞬間、私は想定外のものを目にして息を呑んだ。門前に栗山さんが立っていたのだ。左手に白い箱を持ち、右手で折り畳んだ紙のようなものを見つめている。私は、栗山さんが店の中にいるものと思い込んでいたから、まだ心の準備ができていなかった。とにかく謝ろうと決意して家を出たもの、どう声を掛けるべきかもきちんと決めてはいなかったのだ。
「美緒ちゃん?」
 私が最初の言葉を決めるよりも早く、栗山さんが私に気付いてしまった。
「あ、あの……。」
「昨日はごめんね。」
 栗山さんは手にしていた紙を小さく折り畳んでジャケットの内ポケットにしまい込むと、私の前まで歩いてきた。腰を屈めて微笑み、私が言うべきはずの言葉を私に告げる。
「わ、私の方こそ失礼なことを言って……。」
「いいんだよ。おかげで決心できたから。」
 栗山さんは俯いた私の頭に手を載せた。
「え?」
「フランス、行くことに決めたんだ。午後の便で発つことにした。」
 私が慌てて顔を上げると、栗山さんはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。今度の笑顔は本物だ。栗山さんがフランス行きを決意してくれたことは嬉しかった。それなのに、栗山さんの言葉は私を不安にする。
「午後の便って……。」
「ちょうど飛行機のチケットが取れたから、今日発つことにしたんだ。お店を開けると、また決心が揺らぎそうだったし。」
 その台詞を聞いてやっと、私は栗山さんの背後にあるスーツケースに気が付いた。
「美緒ちゃんのおかげだよ。ありがとう。」
 栗山さんの言葉に、私は言葉を返すことができなかった。あまりにも速い展開に、私の頭はついていくことができない。
「本当に……ごめんなさい。」
 やっと口にしたのは、一番最初から言おうと思っていた謝罪の言葉だった。
「いいんだよ、気にしないで。お互い様なんだから。」
 栗山さんは中腰の姿勢のまま私の頭を撫でてくれた。
「あ、でも……マザコン男っていうのはちょっときつかったかな。」
 私の頭から手を離し、栗山さんは腰を伸ばして苦笑した。
「す、すみません……。」
 私は慌てて頭を下へ向けた。昨日の発言について私はよく覚えていなかったけれど、言われてみると確かに栗山さんのことをマザコン男と罵ったような気がする。度々聞かされていた智子の言葉が、潜在意識の中に植えつけられていて、つい口をついて出てしまった。
「だけど、おかげで目が覚めた。美緒ちゃんの言う通りだったよ。母を亡くしてから仕事も上手くいかなくて、大好きだったお菓子作りが嫌になって、そんな自分はもっと嫌で……。気持ちを切り替えたくて自分のお店を出そうとしたけど、結局、僕は思い出に頼ってただけだった。」
 微笑を浮かべながらも寂しそうに話す栗山さんに、私はなんと言葉を掛けたらいいのか分からなかった。
「でも、ここにお店を出したことは後悔してないよ。美緒ちゃんみたいなお客さんが来てくれて、僕のケーキをおいしいって言って食べてくれて、少しだけ、自信がついた。お菓子作りを楽しいって思えるようになったんだ。」
 栗山さんはとても嬉しそうに笑い、私も笑顔を返した。
「そうだ。これ、美緒ちゃんに。」
 栗山さんが持っていた白い箱を私に差し出した。
「お家に届けたかったんだけど、住所が分からないからどうしようかって思ってたんだ。公園の近くのマンションだってことは前に聞いてたけど、それだけじゃ絞り込めなくて……。」
 栗山さんは頭をかきながら言った。先程栗山さんが見ていた紙は、きっと地図だったのだろう。東京のベッドタウンであるこの近辺には公園もマンションもいくつかあるし、地図にはマンションの住人の名前までは出ていないから、一つ一つ当たっていたらとんでもない時間が掛かったに違いない。午後の便で日本を発つと言う栗山さんに、そんなことをしている暇があるとは思えないから、私が朝早くに《ル・モンブラン》を訪ねたのは正解だった。
「あ、ありがとうございます。でも、どうして?」
 たぶんケーキが入っているのであろう白い箱を受け取り、私は栗山さんがわざわざ私のために用意してくれた贈り物の理由に首を傾げた。
「美緒ちゃんにはたくさんお世話になったし、このケーキは美緒ちゃんに食べて欲しかったから、かな。僕の一番の自信作だから。」
 そう言って栗山さんは照れくさそうに笑った。私は一瞬どきりとしたけれど、私の緊張は隣を通り過ぎたタクシーにさらわれていった。私と栗山さんの横を通り抜けたタクシーは《ル・モンブラン》の門前で停まる。栗山さんは振り返って、タクシーの窓から顔を覗かせた運転手に声を掛けた。
「すみません、少し待ってください。」
「それ、荷物? トランクに入れちゃっていい?」
 運転手は門前に放置されていたスーツケースを指差しながら尋ねる。
「あ、お願いします。」
 栗山さんは運転手に向かって頭を下げた後、再び私に向き直った。
「お店はしばらくお休みするけど、フランスから帰って来たらまたここにお店を出すつもりだから、その時はまた食べに来てね。世界一のケーキを作れるようになって帰ってくるから。」
 栗山さんは私の頭をくしゃくしゃを撫で、スーツケースをトランクに入れようと苦労しているタクシー運転手のもとへ駆けた。栗山さんが運転手を手伝って、スーツケースはトランクに収められる。運転手は運転席へ戻って後部座席の扉を開けた。
「またね。」
 栗山さんはそう笑顔で言い残して、タクシーに乗り込む。扉が閉められ、タクシーは動き出した。私はぼうっと突っ立ったまま、発車するタクシーの後部座席を見つめる。休業を知らせる貼り紙とケーキの箱を抱えた私が、静かな洋館の門前に残された。
 寂しくはない。栗山さんはあまりにも慌しくフランスへ向けて発ったけれど、これでよかったのだと思う。
「いってらっしゃい。」
 既に見えなくなったタクシーの後部座席に向かって、私は言った。自然と笑みが零れ、私は白い箱を抱えて家への道を引き返す。
 昨日の午後にケーキを食べて以来、何も与えられていない胃が空腹の悲鳴を上げ始めた。ふっと栗山さんの自信作だというケーキが何なのか気になって立ち止まる。路上でケーキを頬張るわけにはいかないが、どんなケーキかを確認するくらいなら罰は当たらないだろう。私は塀にもたれて腰を落とすと、膝の上でそっと箱を開いた。
 モンブランだった。それも特大サイズの。通常サイズのモンブランのそびえ立つような高さはなかったけれど、土台は去年の誕生日に食べたホールケーキよりも一回り大きいようだった。本来なら頂上に一つずつしか載っていないはずの渋皮付きの栗も大きなケーキの周りを囲うように並べられている。今年の栗を全て使い切ってしまったのではないかと思うくらい、豪華で大きなモンブランだ。
 箱の隅に、カードが一枚添えられていた。
 ――少し早いけど、お誕生日おめでとう。
 ちょうど《ル・モンブラン》の開店日の翌日だったから記憶に残りやすかったのだろうが、栗山さんが私の誕生日を覚えていてくれてことが嬉しかった。私はカードをポケットに入れると、丁寧に箱を閉じて立ち上がった。早く家へ帰って、この栗山さんの自信作を味わわなくてはならない。ケーキが崩れないように注意しながらも、私の足は自然と速くなった。

 その日の午後、私は自室に部活帰りの智子を招き、栗山さんから貰ったモンブランを味わっていた。巨大なモンブランは、大きさこそ違えど私の大好きな味を保っている。
「結局、告白しないままサヨナラしちゃって本当によかったの?」
 智子は切り分けて小皿に載せられたモンブランをパクつきながら言った。似たような台詞は、私が帰宅直後に送ったメールの返信でも貰っていたが、最初の叫ぶような語調は既にだいぶ落ち着いている。
「告白とかそういうんじゃないんだよ、たぶん。」
 私はティーバッグで入れた紅茶を飲みながらゆっくりと答えた。曖昧な語尾を聞いて智子は顔をしかめたけれど、それ以上は何も言わない。既に散々話した後だったからだ。
 寂しくないと言えば嘘になる。でも、これでよかったのだ。栗山さんにはフランスへ行ってパティシエとしての腕を磨いてきてほしかった。それはたぶん、嘘ではない。
 私はふっと壁に掛かった時計を見遣り、栗山さんの乗った飛行機はもう成田を発っただろうかと考えた。

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