ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 翌日、私は部活中の智子を学校に残し、一人で《ル・モンブラン》を訪れた。一晩考えた結果、智子のアドバイスに従って、お店の手伝いをさせてもらえるよう頼むことに決めたのだ。最初からバイト料を貰うつもりはなかった。あくまでもお手伝いだ。
 今日は《ル・モンブラン》の定休日だったが、栗山さんは店舗の二階を自宅として使っているから、栗山さんに会うことはできるはずだ。お客さんがいない定休日の方がゆっくり話すのには相応しいだろう。
 開きっぱなしだった門を通り抜けると、ダークブラウンの窓枠の中に白いコックコートが見えた。栗山さんに間違いない。コックコートを着ているということは、また新作ケーキのレシピを練りながら試作品を作っているのだろう。本当にケーキ作りが好きなのだ。
 玄関扉にはCLOSED≠フ札が掛かっていたが、扉はフレームから一センチほど浮いていて、鍵は掛かっていないようだった。
「こんにちはぁ……。」
 ドアノブを捻って扉を押すと、頭の上でベルが鳴った。定休日の今日はクラッシックのBGMまでは流していないようだ。静かな店内を覗き込むと、喫茶コーナーの奥から栗山さんがやって来た。
「美緒ちゃん。どうしたの? 今日は定休日なんだけど。」
 栗山さんはいつも通りの笑顔を見せてくれたが、私の目は栗山さんを避けてその奥に留まっていた。店の奥で女性が一人、テーブルに着いていたのだ。
 私はこちらへやって来る栗山さんの問いに答えぬまま、その背後を覗き込むようにして身体を傾けた。こちらを向いて座っていた女性と視線が合い、女性は微笑んで会釈した。私も反射的に会釈を返す。
 セミロングのストレートヘアをした綺麗な女性だった。年齢は栗山さんと同じくらいだろうか。薄ベージュのスーツにピシッとアイロンの掛かったワインレッドのシャツが、有能なキャリアウーマンを思わせる。
「ああ、そうだ。せっかくだから、美緒ちゃんもケーキ食べてく? モンブランしかないんだけど、二日連続で嫌じゃなければ。」
 いつの間にか、栗山さんが私の目の前に立っていた。私がぼんやりと栗山さんを見上げると、栗山さんは微笑を浮かべたまま首を傾げる。
「あ、い、頂きます。」
 咄嗟に答えてしまったが、うっかりするとまたただでケーキを頂くことになりかねない。お財布の中にはまだケーキ一つ分くらいの小銭は残っていたはずだと思いつつ、私は工房の方へ歩いていく栗山さんの背を見送った。
「そんなところに立ってないで、こっちへ来たら?」
 柔らかな声に呼ばれて振り返ると、女性が手招きをしていた。私は喫茶コーナーの奥へ進み、女性に促されて、女性の向かいに腰を下ろした。女性の前には、それぞれ半分に量を減らしたモンブランとコーヒーが置かれている。
 今日《ル・モンブラン》が定休日なのは、先程も栗山さんが言った通り間違いないのだろうが、栗山さんのことだから、定休日だと知らずにやって来たお客さんにケーキを用意したのかもしれない。
「美緒ちゃんだったわよね?」
 女性は、私に頷く暇すら与えず、先を続けた。
「雅弘から聞いてるわ。お店の大事な常連さんだって。」
 一瞬、雅弘≠ェ誰のことだか分からずに混乱したが、お店の話が出て、やっとそれが栗山さんの名前だと気付く。工房へ通じる扉の上に貼られた賞状を見て、私は栗山さんのフルネームを知っていたけれど、これまで栗山さんを名前で呼んだことはなかった。他のお客さんが、栗山さんを名前で呼ぶのも聞いたことがない。話しぶりからしても、この女性は栗山さんと親しい間柄にあるのだろう。例えば、恋人のような。
「あ、先に私の自己紹介をしなくちゃね。ごめんなさい。私は美咲。栗山美咲よ。いつもうちの雅弘がお世話になっています。」
 女性は明るい声で名乗った後、丁寧に私に頭を下げた。私も慌てて頭を下げるが、頭の中は女性の発した言葉で混乱していた。
 栗山さんと同じ苗字に、栗山さんの名前に付けられたうちの≠ニいう修飾語。女性の言葉から推察するに、彼女は栗山さんの恋人ではなく……。
「お待たせ。」
 とっくに分かっている答えを頭の中で確認しようとした時、栗山さんが私のモンブランと紅茶を運んできた。
「紅茶、注いでおくね。」
 栗山さんは私の目の前にモンブランを置き、銀のトレイの上でポットからカップへ紅茶を注いでくれた。
「あ、ありがとうございます。」
 私は、二人の栗山さんに囲まれて、いつも以上の緊張を強いられていた。
 名前だけは聞いたものの、未だに目の前の女性が何者なのか、はっきりしない。答えは頭の隅に確かに存在していたが、私も他のお客さんも、栗山さんは独身だとずっと思い込んでいた。近所の年配の奥様が、姪の写真を持って栗山さんに見合いを勧めている光景は、何度か店で目にしたことがある。栗山さんは断っていたようだが、添えられていた理由は既婚者だからというものではなかったはずだ。
「あ、あのぉ……。」
 琥珀色の液体に満たされたカップがテーブルに置かれたことを確認すると、私は思い切って目の前の女性に向かって口を開いた。二人の栗山さんがそれぞれ微笑を浮かべて視線を向ける。
「その、栗山さんは栗山さんの……いや、ええと、二人とも栗山さんだから……。」
「美咲でいいわよ。」
 混乱を来たして、一人で慌てふためき始めた私に栗山さん――いや、美咲さんが声を掛けてくれて、私は小さく息を吸ってから言葉を続けた。
「その、美咲さんは、栗山さんの……。」
 一瞬迷ったものの、美咲さんでない方の栗山さんを名前で呼ぶことは躊躇われ、私はいつも通りの呼び方を貫いた。
「その……。」
 思い切って切り出したものの、声は段々と小さくなって、顔も自然と俯きがちになっていく。肝心の言葉がなかなか喉の先へ出てこなかった。
「奥さんだったりして。」
 躊躇いを重ねている私の頭の上に、美咲さんは明るい声を浴びせた。軽やかに発せられた言葉は不意打ちの重りを伴って、私の頭へ飛んでくる。反射的に顔を上げると、美咲さんはにこにこと笑っていた。私も笑いたかったが、硬直した顔の筋肉は引きつった表情さえ作り出すのを困難にしていた。
「姉さん、冗談もほどほどにしてよ。」
 不自然な間を破ったのは、珍しく不愉快そうな音を含んだ栗山さんの声だった。
「ね、姉さん?」
 私はゆっくりと顔の緊張が解かれるのにしたがって、斜めに栗山さんを見上げた。
「美咲は僕の姉だよ。昔からこういう人でね。」
 栗山さんは私に向かって苦笑したあと、美咲さんを振り返って呆れを表すように一瞥した。
「だって、美緒ちゃんったらすっごくかわいいんだもの。いじめたくなっちゃうじゃない?」
 美咲さんはけらけらと笑い、テーブル越しに右手を伸ばして私の頭をなでた。目や口のパーツを一つずつ見れば、美咲さんと栗山さんはとてもよく似ていて、姉弟というのも納得がいく。
「あ、あの……。」
 どう対応したらいいのか分からず、されるがままに頭をなでられていた私は、何か説明が聞きたかった。
「あ、心配しなくても大丈夫よ。私、悪趣味ないじめはしないから。」
 美咲さんは、私の頭をなでていた手を引っ込めて、胸の前で両手を合わせるとにこりと笑う。キャリアウーマン風の見た目に対照的ないたずらっぽい言動も、なぜか憎めない可愛い人だ。
「十分、悪趣味だよ。」
 栗山さんがため息混じりに漏らしたが、美咲さんは全く動じず、その様子に栗山さんは再びため息を漏らす。
「前から妹がほしかったのよねえ。雅弘だって昔は小さくて可愛かったのに、こんなに大きくなっちゃって……。昔は『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って言って私の後ろをついてきてたのに、今なんか、私を呼び捨てするのよ。可愛くないでしょー。」
 美咲さんは一方的に話を続けたあと、栗山さんを斜めに見上げて睨みつけた。栗山さんは視線を逸らして、更にため息を吐く。
「仕込みがあるから、俺は店の奥にいるよ。」
 栗山さんは、勝てそうにない争いに居たたまれなくなったのか、美咲さんに向かって言った。
「美緒ちゃんもゆっくりしていってね。こんな人が側にいたら落ち着かないだろうけど。」
 私にはいつも通りの笑顔で声を掛けてくれたが、最後に付け足された言葉は美咲さんを睨みながら発せられる。美咲さんに対する精一杯の抵抗が込められているらしいが、声には優しさが含まれていて、喧嘩するほど仲がいい姉弟らしい。
「お姉ちゃんと呼びなさい、お姉ちゃんと。」
「変なことを言われても、真に受けちゃだめだからね。」
 栗山さんは、美咲さんの言葉には耳を貸さず、そう私に笑顔で念を押して、テーブルを離れた。
「ね、可愛くないでしょー。」
 美咲さんがテーブルに身を乗り出して、私に同意を求めてくる。
「はあ……。」
 私は何とも答えがたく、曖昧に息を吐いた。
「あ、そうだ。雅弘!」
 美咲さんは突然思い出したように声を上げ、背筋を伸ばして私の背後を覗き込んだ。私が美咲さんの視線を追って振り返ると、栗山さんもレジの奥で首だけこちらに向けている。
「フランス行きのこと、ちゃんと考えといてよ!」
 美咲さんがそう声を掛けると、栗山さんは気乗りしない様子で小さく頷いたあと、工房へ通じる扉の奥へ消えた。
「フランス行きって、何の話ですか?」
 私は、閉じた扉から美咲さんへと視線を戻し、姿勢を正しながら尋ねた。私が首を突っ込むようなことではないのかもしれないが、言葉は反射的に口をつく。先程までの緊張は飛んで、逆に漠然とした不安に襲われた。
「前に私が働いてたレストランのパティシエが他のレストランに引き抜かれちゃって、急に来てくれないかって連絡があったのよ。あ、私も一応、パティシエールなのよ。今は横浜の小さなレストランで働いてるんだけど、よかったら今度お店に来てね。ご馳走するから。」
 美咲さんは早口に話した後、コーヒーカップを口へ運ぶ。
「その、前に働いていたレストランはフランスにあるんですか?」
「うん。一年間、向こうでお菓子作りの勉強をしてたの。オーナーが気さくでいい人でね。料理のことになるとすっごく厳しいんだけど。」
 美咲さんは笑いながら話して、モンブランにフォークをつける。
「美緒ちゃんも食べたら?」
 私の目の前のモンブランを指差しながら美咲さんが言い、私も慌ててフォークを取った。
「それで話が逸れたけど、私が今働いてるレストランは私が抜けると営業できなくなっちゃうようなちっぽけなとこだから、フランスには行けないって話をしたの。だけど、オーナーにはお世話になったし、本当に困ってるみたいだったから、代わりに雅弘を紹介するって言ったのよ。本場のフランスで勉強できるなら雅弘にとってもいいと思って。それなのに、ねえ……。」
 美咲さんは左肘をテーブルに載せ、頬杖を突く。
「栗山さんは行かないって言ってるんですね。」
「そうなのよ。せっかく人が親切に紹介してあげるって言ってるのに。」
 美咲さんは、大きく切り取ったモンブランをフォークに突き刺すと、大きく口を開けて口に入れた。
「でも、栗山さんもこのお店があるんだから、仕方ないんじゃ……。」
 私が言うと、美咲さんはフォークを置いて身を乗り出した。
「甘いわ!」
「え、そうですか? 栗山さんのモンブランはどちらかというと甘さ控えめのような……。」
 レシピを変えたのか、それともうっかり分量を間違えてしまったのかと思いつつ、私はフォークで切り取ったモンブランを口へ運んだ。
「違うわよ、モンブランの話じゃなくて。」
 美咲さんは脱力して椅子の背にもたれた。
「これは雅弘にとってもチャンスなのよ。私が働いてたそのレストランは、パリでも有数のレストランの一つだし、オーナーシェフはパティシエとしても一流の実績を持ってる。あの子、才能はあるのにほとんど独学で、まともなレストランで働いた経験もないし、行けば絶対にいい刺激になると思うの。雅弘は、小さなお店でも自分の作ったケーキをおいしいって言って食べてくれるお客さんがいればそれでいいなんて言ってるけど……。」
 美咲さんは寂しそうにため息を漏らす。
「美咲さんの言うことは間違ってないと思いますけど、栗山さんがそれでいいって言うなら、無理に強いることじゃないと思います。私、このお店好きです。」
 私はフォークを置いて言った。フランスへ行くことが、パティシエとしての栗山さんにとって、いい経験になるだろうということは私にも分かるが、《ル・モンブラン》がなくなってしまうのは寂しい。無理強いをするのも変だと思った。
「そうね。私もこのお店は好きよ。本当にいいお店だと思う。美緒ちゃんのようなお客さんもいるしね。」
 美咲さんは笑った。
「でも、このままじゃダメなのよ。このままあの子の才能を潰したくないの。お母さんもきっと望んでない。」
 美咲さんはコーヒーカップを手に取ると、僅かな傾きをつけてゆっくりと中の液体を回す。
「お母さん、確か一昨年亡くなられたんですよね。」
「ええ。でも、その前からずっと入院してたのよ。私がフランスにいる間も。病気の母親を放って留学なんてひどい娘でしょう?」
 美咲さんは口端を上げ、首を傾げながら言った。美咲さんには美咲さんの考えがあったのだと思う。美咲さんだって決してお母さんのことをどうでもいいと思ってフランスに発ったわけではない。美咲さんのお母さんへの気持ちは、ゆっくりと吐き出される言葉にしっかりと込められていた。
「私は娘としても姉としても失格。」
 私がなんと答えるべきか迷っているうちに、美咲さんは次の言葉を吐いた。
「私のフランス行きが決まったとき、本当は雅弘も一緒に来るはずだったのよ。最初にオーナーから誘いを受けたのは雅弘だった。ほら、工房の入り口の上に賞状が飾ってあったでしょう。雅弘が専門学校を出てすぐに出場したコンクールのものなの。」
 美咲さんは、私の背後を指差しながら言い、私も後ろへ首を回した。角度が悪くて額縁を真横から見ることしかできなかったが、美咲さんが言っているのは、私が栗山さんのフルネームを知るきっかけになった賞状のことだろう。私が視線を戻すと、美咲さんは続けた。
「優勝はできなかったけど、入賞して、審査員に招かれていたフランスのレストラン・オーナーからフランスのお店で働かないかって誘われたの。本人もその気になってたんだけど、出発の直前にお母さんが倒れて、雅弘はフランス行きを諦めちゃった。父も早くに亡くなっていたし、お母さんを一人置いていくわけにはいかないって思ったんだと思う。私がお母さんの面倒を見ればよかったんだけど、私はその半年前からフランスにいて、お母さんが倒れたって聞いたときも日本には戻ってこなかったから。」
 美咲さんはカップを両手で包み込むように持って口へ運ぶ。美咲さんは日本へ戻らなかった理由を語らなかった。
「あの子、ずっと言っていたのよ。世界一のお菓子を作るんだって。このままこのお店を続けても世界一にはなれない。雅弘だって分かってるはずなのよ。なのに、お母さんが亡くなってから、せっかく声が掛かった有名レストランも辞めて、こんなところに引きこもっちゃって……。後悔させたくないの。」
 美咲さんはコーヒーカップの中身を見つめる。ぎゅっとカップを握り締める両手も、真っ直ぐ落とされた視線も、美咲さんの中に強い決意があることは間違いなかった。
「このお店が好きって言ってくれる美緒ちゃんには不満かもしれないけど、美緒ちゃんだからお願いしたいの。雅弘には私の推薦だってことも不満みたいで、私が言っても余計意地になって聞いてくれないのよ。だから、私の代わりに雅弘を説得してくれない? あの子も美緒ちゃんの言うことなら聞きそうな気がするから。」
 顔を上げた美咲さんは笑顔で言った。栗山さんの笑顔によく似ている。
「でも、私なんかが言っても……。」
「ねえ、美緒ちゃん。栗山雅弘が作る世界一のお菓子、食べてみたくない?」
 栗山さん似の笑顔と、最高の口説き文句。断りようがなかった。

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