ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 モンブランを食べ終えて店を出るとき、私と栗山さんは紅茶とケーキの代金を払うか払わないかで小競り合いになった。店主の栗山さんが払わなくていいと言い、客の私が払うと言う一般的なやりとりとは立場と台詞が入れ替わった珍しいシチュエーションだ。
 私は、昨日もモンブランをただで食べさせてもらったのに二日連続なんて申し訳ないと主張し、栗山さんは、今日はお店の営業日ではないしレジを打つのも面倒だからと言い訳を重ねた。私にとって不運だったのは、言い負かさなければならない相手が一人ではなかったことだ。
「そんなに遠慮しなくていいのよ。子供のうちはずうずうしいくらいの方がかわいいんだから。」
 二人の栗山さんの間でため息を吐いている私の頭を撫でながら、美咲さんは言った。高校生にもなって頭を撫でられるというのも珍しいことだと思うが、美咲さんは人の頭を撫でるのが好きらしい。ついさっきも栗山さんの頭に手を伸ばして、栗山さんの背の高さをかわいくないと不満げに漏らしていた。背が低い私の頭は、美咲さんにとってちょうど撫でやすい位置にあるらしく、頭を撫でられること自体は気にならなかった。私にあまり考えたくないことを実感させたのは、美咲さんの行動ではなく台詞の方だ。
「こ、子供……。」
 私は、できれば聞きたくなかった言葉を声に出して反復した。自分の言葉で余計にダメージを上乗せしてしまった気もするが、思わず口をついてしまったのだから仕方がない。美咲さんも私の反応に気付き、彼女なりにフォローしようとしたのだろう。
「だって美緒ちゃん、こんなに小さくてかわいいんだもの。義務教育が終わるまではまだ子供よ。」
 栗山さんはすぐに美咲さんの失言に気付いたらしく、顔を歪めた。
「姉さん、美緒ちゃんは高校生だよ。」
 言うべきか流すべきかしばし躊躇った後、栗山さんは囁き声で美咲さんに言った。小さな声でも、すぐ側にいた私の耳に届かないわけではない。美咲さんは私の頭を撫でる手を止めて、驚いた表情で私を見つめる。
「もうすぐ十七歳になります。」
 私が俯きがちに答えると、美咲さんは「あらぁ。」と心底驚いたらしい声を漏らした。
 背が低い上に童顔だから、実年齢より幼く見られるのには慣れている。しかし一年前と比べれば、身長は二、三センチ伸びた。それでもまだ中学生に見えるということは、一年前、初めて栗山さんと出会った時、栗山さんの目に私はどれだけ幼く見えたのだろう。
「でも、やっぱりこれくらいがちょうどいいわよ。雅弘みたいに大きくなっちゃうと、かわいくないもの。」
 美咲さんはきゅうっと私を抱き締めて、再び私の頭を撫でる。
「雅弘だって小っちゃいもの好きでしょう?」
 美咲さんは私を離すと、くいと栗山さんに向けて押し出した。よろけた私は、危うく栗山さんにぶつかりそうになる。栗山さんは私の肩を押さえて私を支えた後、腰を屈めて視線を私に合わせてくれた。栗山さんの顔が目の前に現れて、反射的に背筋が伸びる。
「美緒ちゃんはきっとまだ身長も伸びると思うけど、このままでも美緒ちゃんは十分素敵な女の子だと思うよ。」
 そう言いながら、栗山さんは私の頭を撫でてくれた。私の頭を包み込むような手に、栗山さんの手が思いの外、大きいこと知る。
「あ、ありがとうございます。」
 俯きがちにそう答えるのが精一杯だった。初めて、お客さんとしてではなく一人の女の子として扱われたような気がした。それが恋愛対象の異性としてではないと分かっていても、いつもより速い心臓の鼓動を抑えることはできなかった。
 私が美咲さんと共に店を出ると、栗山さんも門のところまで見送りに出てきてくれた。
「モンブラン、おいしかったわ。確かにお母さんの味だった。」
 美咲さんが言うと、栗山さんは静かに頷いて応える。普段お客さんを迎える時のものとは違ったけれど、確かに栗山さんは微笑んでいた。夕風は冷たくなっていたけれど、夕日に染められた頬はいつも以上に熱を帯びているようだった。
「今日は美緒ちゃんに会えてよかった。雅弘のこと、よろしくね。」
 美咲さんが僅かに腰を屈め、私に視線を合わせて言った。
「あ、はい。いえ、その、いつも私の方が栗山さんにお世話になっていて……。」
 何に対して「はい。」と答えたのか自分でも混乱しながら話していると、美咲さんが私の耳元で囁いた。
「雅弘の説得、よろしくね。」
 言われて思い出す。私は大役を仰せつかっていたのだ。
「また来るわ。ちゃんと考えておいてね。」
 腰を伸ばすと、美咲さんは再び栗山さんに向かって言った。何について考えておいて欲しいのかは、言わなくとも伝わったらしい。栗山さんは微笑を崩して視線を逸らせた。身内の美咲さんに言われるのも不愉快そうなのに、赤の他人の私が口を挟むなんて余計に憚られる。どうして美咲さんは中学生に見えてしまうような子供にこんな大役を与えたのだろう。子供に見えたからだろうか。
 駅へ向かうと言う美咲さんとは、店の前で別れることになった。私は、笑顔で曲がり角の向こうへ消える美咲さんを栗山さんと並んで見送った後、栗山さんにもう一度、ケーキと紅茶のお礼を言って《ル・モンブラン》を離れた。

 家へ帰る途中、肩に掛けたトートバッグの中で何かが震えた。小動物が紛れ込んだわけでもないだろうから、震えた何かは携帯電話だ。取り出して見ると、サブウィンドウにはメール受信≠フ文字。開くと、送り主は智子だった。
「部活終わったよ。告白は上手くいった?」
 笑顔の絵文字が付けられた文面が、なんだか憎らしく感じる。
 お店の手伝いを申し出る決心をつけたことは智子にも話したが、智子は勝手にそれを告白と呼んでいた。そもそも、今日の私はお店の手伝いを申し出るという目的さえ達成できなかった。ケーキと紅茶を頂いて、お店の売り上げにマイナスの貢献をしただけだ。結局、私は目的とは逆の働きをしてしまったことになる。加えて予想外の大役まで授かって、私は「それどころじゃない!」と叫びたかった。
 私は一度返信画面を出した後、打ち込んだ文字の変換を確定しないまま待ち受け画面に戻った。アドレス帳を呼び出して、智子の電話番号を探して発信する。
「のろけ話だったら聞かないよ。」
 数回のコールの後、私が口を開くよりも先に智子の明るい声が耳に届いた。
「のろけ話なんかしないよ。」
 私はため息を吐いて答えた。
「なんかテンションが低いな。失敗したの?」
 極端に明るかった智子の声のトーンは下がったが、返答は相変わらずあっさりしている。
「たぶん、それ以前の問題。」
 詳しく話をするにもどこから説明すればいいのか分からず、私は言葉少なに答える。相談したいことは山ほどあった。
「もしかして、何か面白いことになった?」
 私の沈んだ声に、智子は嬉しそうな声を上げる。昔から、智子にはトラブルを楽しんでしまうという困った癖があった。尤も、おかげで救われることも多いのだから、困った癖≠ニ言うのは適当ではないかもしれない。
「今、どこにいるの?」
「家に帰るところ。」
「じゃあ、裏の公園で待っててよ。私も行くから。」
 智子も自宅への道を歩いているところなのだろう。私は短く肯定の返事をして、電話を切った。
 私と智子は同じマンションのお隣同士で、マンションの裏の小さな公園のブランコは、幼稚園の頃から私と智子の定例会議場になっている。最近は《ル・モンブラン》の喫茶コーナーを占拠することの方が多かったけれど、お小遣い節約のために家に置いてあるお菓子を持ち寄って夕飯までの時間を潰すことは度々あった。自宅の部屋を使えばいいのだが、壁の薄い古いマンションでは、ちょっと話が盛り上がるとリビングにいる母に話が筒抜けになってしまう問題があった。
 夕闇が迫って人気のない公園の片隅で、私はブランコに腰を下ろす。目の前に自宅の明かりが見えるけれど、寂しい場所には変わりがなかった。私は小さくブランコを揺らしながら、智子が早く現れてくれることを願う。
 間もなく、公園内で唯一の外灯がチカチカと瞬いて灯ると同時に、智子は喜々とした表情で公園に現れた。智子は斜め掛けしていたスポーツバッグを地面に放ると、私の真正面でブランコの柵を乗り越えて、そのまま柵に腰掛ける。にこにこと笑顔を見せて待つ智子の様子から、彼女が私の話にかなりの期待をしていることが伺える。私は、この期待を裏切ることなく、放課後数時間のできごとを端的に説明しなくてはならない。私は小さくため息を吐いてから、口を開いた。
「全く、あんたって子はどうしてこう話をややこしくするのが好きかね。」
 栗山さんのお姉さんに会ったことと、栗山さんがフランスへ行くよう説得を頼まれたことを話すと、智子は予想通りの反応を示した。
「私がややこしくしたわけじゃないんだけど。」
 ささやかに抵抗を試みたが、智子はそれを一蹴した。
「いんや! 美緒がちゃんと私の言う通りに早々に告白していれば、こんなことにはならなかったよ。これは百パーセント間違いない。」
 智子は腰掛けた柵から飛び降りるように前方へ飛び、私の額に人差し指を突き付けた。
「何度も言ってるけど、そういうんじゃないんだってば。」
 私は地面に着けた足を真っ直ぐ伸ばして、ブランコごと後ろへ下がった。
「何がそういうんじゃないのよ。好きなんでしょ? あのなよなよ男のことが。」
 智子は両手を腰に当てて呆れている。
「好きだけど……好きじゃないの。」
 私はもう一歩後ろへ下がり、地面に着いた足を離した。ブランコは弧を描いて智子へ向かう。
「わけ分かんない。」
 智子は、持ち前の運動神経のよさであっさり私の攻撃をかわすと、隣のブランコへ両足を揃えて飛び乗った。智子は立ったまま、ブランコを前後に揺らす。
 わけが分からないのは私も同じだった。栗山さんのことは確かに好きだったけれど、それが恋愛感情なのか実は私にもよく分からないのだ。
「まあ、いいけどさ。その請け負っちゃった説得の方はどうするのよ?」
 智子はブランコを扱ぎながら、私を見下ろして聞いてくる。
「どうしようか?」
 私は智子を見上げながら、薄笑いを浮かべて尋ねた。私にとって、今最大の問題は、栗山さんのお店の手伝いができないことでも、お店の売り上げにマイナスの貢献をし続けていることでもなく、美咲さんに頼まれてしまったこの大役だった。
「美緒は、栗山さんがフランスに行った方がいいと思うの?」
 智子はキイキイというブランコの悲鳴の中でもはっきりと聞こえるほどの大きなため息を吐いて、私に尋ねた。初っ端から、的確な、しかし答えにくい質問を返してくれる。この答えが出るなら、話はもう少し簡単だっただろう。
「それがよく分からなくて。智子はどう思う?」
 私の問い掛けを置いて、しばし智子は熱心にブランコを扱いでいた。
「はっきり言って、私もよく分からない。っていうか、美緒の話を聞く限りじゃ、あのなよなよ男の考えていることがよく分からん。」
 智子の答えに、私は小さく頷いた。そうなのだ。とにもかくにもこれは栗山さんの問題なのだ。栗山さんが行きたくないと言うなら、やはりその意思を尊重するのが筋だと思う。
「まずは、明日またお店にに行ってみることだね。奴の真意を確かめないことにはどうにもならないでしょう。」
 大きくブランコを扱いでいた智子は、そのまま勢いよく前方へ飛び出した。扱ぎ手を失ったブランコは大きく揺れるが、智子は無事に地面に着地している。私も昔は同じことをした記憶があるが、今はさすがに怖くてできない。
「智子は明日、部活……。」
「あるよ、もちろん。まあ、頑張って。説得を頼まれたのは、私じゃなくて美緒だからね。最悪、逆にお姉さんの方を説得しなきゃいけなくなるかもね。」
 私の問い掛けを先読みした智子は、にこりと笑って私の肩を叩いた。本当に頼りになる親友なのだけれど、智子は決して私を甘やかさない。これまでも、私は彼女によって数々の試練を与えられてきたような気がする。
「さあ、ご飯に帰りますか。」
 智子は地面に放置したスポーツバッグを拾い上げると、正面のマンションを見上げた。窓から洩れる灯りが、闇の中にはっきりと輝いている。日はとっくに暮れてしまった。私はブランコから静かに立ち上がると、先に歩き出した智子の背中を追いかけた。

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