ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 栗山さんがフランスへ発って一週間後、部活動に熱心な智子を学校に残したまま帰途についた私は、ぼんやり歩くうちに《ル・モンブラン》の前までやって来ていた。一年間で身に付いた習慣は、そう簡単には離れないらしい。
 門前には、変わらず無期限休業の貼り紙があったけれど、門の奥へ目をやると玄関が開いていた。驚いて目を凝らすと、家の中で何か白いものが動くのが見えた。元《お化け屋敷》を言っても、いまどきシーツを被ったようなお化けが出るとも思えない。たった一週間で栗山さんが帰国してきたとも思えないし、最も可能性が高いのは泥棒である。どちらの答えががより望ましくないかを考えながら、私はそっと門の中へ入った。
 緊張しながら玄関の中を覗き込むと、工房へ通じる扉から出てきた人と目が合った。
「あら、美緒ちゃん。」
 声を掛けられたその瞬間、私は一瞬の戸惑いから解放された。髪を後ろで一本に束ね、最初に会った時とは若干印象が変わっていたけれど、栗山さん似の整った顔立ちは紛れもなく美咲さんだった。
「ど、どうして美咲さんが……?」
「雅弘に頼まれたのよ、ここの掃除。せっかく改装したのに放っておくとまたお化け屋敷になっちゃうでしょう?」
 美咲さんは肩を竦めて微笑んだ。
「だけど、あんまりだと思わない? あの子、いきなり空港から電話を掛けてきて、今からフランスに行って来るから店を頼むなんて言うのよ。もうちょっと早く連絡くれれば見送りにだって行けたのに、あんなに渋ってたのに突然すぎるのよ。」
 美咲さんはガラスケースから身を乗り出し、拳を握り締めて力説する。半ば一方的に話し始めてしまう美咲さんに改めて戸惑いを覚えながら、私は黙って美咲さんの話を聞いた。
「まあ、フランス行きの話を持ってきたのは私だし、ここは私にとっても思い出の家だから掃除くらいはするけど。だけど、だけどね! 最低限の荷物しか持ってこなかったから足りないものを送ってくれとか、そんなの向こうでいくらでも買えばいいって思わない? 郵送代は誰が払うのよ、一体!」
 美咲さんは悲鳴に近い声を上げていたけれど、その声は嬉しそうで、私は思わず笑ってしまった。
「美緒ちゃん。本当にありがとう。」
 愚痴を一気にぶちまけた後、美咲さんは穏やかに微笑んで言った。
「え?」
「雅弘が決心できたのは、美緒ちゃんが説得してくれたおかげだから。」
 美咲さんがガラスケースの上に頬杖をついて笑い、私は恥ずかしくなって俯いた。
 栗山さんが決心するきっかけを作ったのは、確かに私かもしれないが、私が栗山さんを説得したというのは間違いだ。私は一方的に栗山さんを怒鳴りつけただけで、あれを説得とは普通、言わない。
「いえ、私は全然……。」
 私がどんな説得をしたのか、栗山さんが美咲さんに話していないこと祈りながら、私は改めて後悔の念に駆られた。店の入り口に突っ立っていると、ふっと甘い香りが鼻をついた。店内においしそうな匂いが漂っている。
「美咲さん、この匂い……。」
「あ、気がついた? 奥でケーキ焼いてたのよ。言ったでしょう、私もパティシエールだって。」
 美咲さんは工房へ続く扉を指差しながら答えた。
「あ、もしかして、栗山さんの代わりに美咲さんがここでお店を?」
 私が期待の混じった声で尋ねると、美咲さんは笑いながら顔の前で左右に手を振った。
「まさか。今の私は、レストランの仕事で精一杯。でも、お店と言えばお店になるのかな。私、ここで月に一回お菓子作りの教室をすることにしたの。」
 美咲さんはにこりと笑った。
「改装して一通りの設備が整っているから、使わないのももったいないでしょう? 何十人も立てるようなキッチンじゃないから、教室って言っても大したことないんだけど、お店の常連になってくれた近所の奥様方に来てもらえれたらいいかなって。ついでにうちのレストランの宣伝もできるし、掃除に来るだけならただ働きだけど、こうすれば元が取れるじゃない? よかったら美緒ちゃんも来て。教室の前にお掃除を手伝ってもらえるなら、授業料はただにするわよ。」
 美咲さんがそう言い終えた時、工房からチンと小さな音が聞こえた。
「どうやらケーキが焼けたみたい。教室用のレシピを試してたんだけど、食べていかない? 雅弘のケーキとどっちがおいしいか確かめてみて……なんてね。」
 美咲さんはそう言うと、私が頷くのを確認したのかしないのか、さっさと工房へ戻っていく。
「その辺に座っててねー。すぐに持っていくから。」
 工房の奥から声だけが聞こえて、私は喫茶コーナーの一番奥にあるいつもの席へ向かった。栗の木が見える窓際の特等席だ。
 間もなく、美咲さんがスライスされたパウンドケーキと紅茶のセットを銀のトレイに載せてやって来た。
「さ、どうぞ。」
 美咲さんは私の目の前に紅茶とケーキをセットすると、トレイを抱えたまま隣に立っていた。どうやら今日はパティシエールとして私をもてなしてくれるらしい。
「どう? 雅弘のよりおいしい?」
 私が出されたパウンドケーキを一口口に入れると、いたずらっぽい笑みを浮かべて聞いた。焼きたての温かなパウンドケーキは口の中でとろけそうなほどにおいしい。栗山さんは生菓子を作ることが多く、栗山さんのパウンドケーキを食べたことはなかったけれど、今まで食べたパウンドケーキの中では一番の味だった。
「すごくおいしいです。栗山さんのパウンドケーキは食べたことがないので分かりませんけど……。」
「雅弘のモンブランとはどっちがおいしい?」
 私の答えに満足できなかったのか、美咲さんはいじわるな質問を重ねた。
「ええっと……。」
「冗談、冗談。ありがとう。」
 私が答えに窮すると、美咲さんは笑いながら私の頭を撫でた。
「そうだ。さっきの話の続きなんだけど、美緒ちゃんも私の教室に来ない?」
 美咲さんは私の向かいの席に腰を下ろすと、身を乗り出しながら言った。
「正直な話、教室の前にこの家を掃除しなきゃいけないのが大変でねえ。二階もあるからけっこう広いのよ。授業料をただにするから、手伝ってくれないかなあ。ケーキもタダで食べられるし、お友達と一緒でも構わないんだけど。」
 美咲さんは正面で指先を揃えて両手を合わせ、僅かに首を傾げた。
「分かりました。月に一回なんですよね? もう日付は決まっているんですか?」
 私はフォークをお皿に置くと、笑顔で頷いた。最初に話を聞いたときから興味があった。お菓子作りを教えてもらえるというのも楽しみだったし、栗山さんには何度もただでケーキをご馳走になっている。留守中の掃除くらいではお礼には不十分なくらいだ。
「ええ、初回は来月の第一日曜日。都合つく?」
 私の答えを聞いて、美咲さんはぱあっと笑顔を咲かせた。
「はい、大丈夫です。友達も誘ってみます。」
「ありがとー。やっぱり美緒ちゃんっていい子だわ。」
 美咲さんは両手を組み合わせて、喜びを顔中に広げる。やや大袈裟とも思える表現だが、それが決して嫌味にならないのが美咲さんのすごいところだった。
「友達も誘ってみます。いいですか?」
 私は智子を誘うつもりで美咲さんに尋ねた。月に一度なら、月曜から土曜まで部活に忙しい智子も参加可能なはずだし、掃除や片付けは私以上に智子の方が得意である。
「もちろん、大歓迎。教室は午後からだけど、お掃除組は朝の九時集合でお願い。軽いものでよければお昼ご飯も用意するから。」
 美咲さんと私の話はあっさりまとまって、私はパウンドケーキと紅茶をおいしく頂くと、店を出ることにした。
「いけない、大事なものを忘れてた。ちょっと待ってて。」
 私が玄関の扉に手を掛けると、美咲さんはポンッと手を打って慌てて工房へ入っていく。
 間もなく、工房から戻ってきた美咲さんは、白い封筒を手にしていた。
「はい。これは雅弘を説得してくれたお礼。」
 美咲さんに封筒を差し出され、私は慌てて両手を振った。
「い、いえ、結構です。そんな私は……。」
 てっきりバイト料でも渡されるのかと思った私が慌てると、美咲さんはにんまり笑って封筒を引っ込めた。
「あら、本当に要らないの? 美緒ちゃん宛って預かったんだけどな。」
「へ?」
 私の反応を予想していたかのように、美咲さんはくすくすと笑い、それから改めて私に封筒を差し出した。
「はい、ちゃんと渡したわよ。」
 受け取った封筒の宛名には、確かに見慣れた文字で《美緒ちゃんへ》と書かれている。丁寧な楷書体は《ル・モンブラン》のメニュー表と同じ筆跡だ。私は封筒の裏の差出人名を確認した後、開けていいものかどうかしばし迷った。
「どうぞ、開けて。」
 答えを求めて顔を上げると、美咲さんはにっこり笑って促し、私は頷いて封筒を開く。
 中には便箋が三枚。いずれも全面に文字が綴られていた。文面は「お元気ですか?」に始まって、フランスの様子、レストランの人たちのこと、栗山さんがフランスでとても充実した生活を送っていることが記されている。最後は「ありがとう。」で締められていた。
「よかったら、返事書いてあげてね。連絡先、書いてあるでしょう?」
 私が一通り手紙を読み終えると、美咲さんが言った。
「はい。」
 私は三枚目の便箋を見ながら頷いた。最後に、栗山さんのフランスでの住所と電話番号が記されている。さすがに国際電話を掛ける勇気はなかったけれど、手紙を出すくらいなら切手代もお小遣いの範囲で足りるはずだった。
「あ、あの、ありがとうございました。」
 私は手紙を胸元に抱えて、美咲さんに頭を下げた。
「どういたしまして。じゃあ来月、よろしくね。」
 美咲さんに微笑まれ、私はもう一度会釈をすると、手紙を抱えて店を出た。


 五年後、彼は綺麗な奥さんを連れて日本へ帰ってきた。

 パソコン画面に打ち込まれた文字を眺めながら、私は頬杖を突いてうーんと唸る。フィクションとは言え、やはり自分がモデルの登場人物を《綺麗》と形容するには抵抗がある。
「原稿、進んでる?」
 顔を上げると、雅弘さんが銀色のトレイに紅茶とケーキを載せて持ってきていた。
 大学でフランス文学を専攻した私は、卒業を間近に控え、四年間の大学生活の集大成に新人賞に応募するための原稿を書いているところだ。卒業論文も書かなくてはならないが、新人賞の締め切りの方が早いから、今は専ら趣味に徹している。
「あともう少しで完成かな。」
 私は目の前のモバイルパソコンの蓋を閉じ、隣の座席の上に移動させた。空いたテーブルの上の空間に、雅弘さんが紅茶と私の大好きなモンブランを載せてくれる。
「今年最初のモンブランだよ。味、変わってないかな。」
 雅弘さんは私の隣に立って微笑んだ。
 五年間、フランスで修行して、新作のレシピが増えたのはもちろん、それまでのケーキもだいぶ改良を重ねていたけれど、このモンブランだけはレシピが変わらなかった。私も雅弘さんも、お母さんの味をそのまま残したかったのだ。
 モンブランのレシピと同様、《ル・モンブラン》の店舗も五年の間そのままの形で保たれていた。これは毎月きちんと掃除をしてくれた美咲さんと智子のおかげだ。私ももちろん掃除を手伝っていたのだけれど、一年間のフランス留学でつい先日雅弘さんと共に帰国したばかりだから、その間の掃除は美咲さんと智子に任せていた。美咲さんの教室に集った近所の奥様方も度々掃除を手伝ってくれて、結局のところ、お店がそのままの形で残されたのは雅弘さんの人望があってこそなのだ。
 明日のリニューアル・オープンにも、以前の常連さんが大勢押し掛けてくるに違いない。窓際の特等席に陣取ってゆっくり小説を書いていられるのも今の内、明日には店中が慌しくなる。
 私はフォークを取り、モンブランの頂上を大きくすくい取った。一口で口に入れ、大きな栗を噛み砕く。柔らかく煮られた栗も、栗の味そのままのペーストも、確かに五年前と同じ味だった。
「おいしい。大丈夫、私の大好きな味だよ。」
 私がそう言って雅弘さんに微笑むと、雅弘さんはそっと腰を屈めて私の口元へ手を伸ばした。
「クリームが付いてる。」
 雅弘さんは微笑みながら私の口元を指先で拭うと、クリームの付いた指先を舐めた。
「うん、おいしい。」
 雅弘さんは満足げに頷く。
「モンブラン、まだあるんでしょう? もう一つ持ってきて自分も食べればいいのに。」
「うん。だけど、今夜のパーティーに出す分も取っておかなきゃいけないし、明日以降、お店に並べる分も必要だからね。僕の分は美緒が分けてくれれば十分だから。」
 そう言って雅弘さんは私が手にしていたフォークを手に取ると、大きくモンブランを削り取って自分の口に運んだ。
「あ、私の。」
「僕が作ったんだよ?」
 私が慌てて奪われたフォークに手を伸ばすと、雅弘さんは笑った。
 雅弘さんは五年前と変わらず、いつもにこにこしているけれど、少しだけ表情にヴァリエーションが増えたような気がする。お店のお客さんでは見られない表情は、妻の特権だ。
「じゃあ、僕は今夜のパーティーの料理を準備してるからね。」
 そう言って雅弘さんは再び工房へ戻っていった。
 今日は私と雅弘さんの結婚記念パーティーだ。結婚式はフランスの小さな教会で済ませていたけれど、お世話になった人たちに結婚を報告するのはここしかない。雅弘さんにとっても私にとっても、このお店は一番の思い出の場所なのだ。
 工房へ姿を消す雅弘さんを見送った後、私は再びモンブランをすくい取って口へ運んだ。
「うん、おいしい。」

《了》


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