ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 外見は、その西洋風の雰囲気を除けば一般の住宅と何ら変わらなかったが、玄関を開けて一歩その中へ入ると、正面にはケーキを並べるガラスケースがあり、右手には背の高い観葉植物が置かれて、その先にダークブラウンで統一された椅子とテーブルの並ぶ喫茶コーナーが続いている。ガラスケースの中はまだ空だったけれど、店内の雰囲気は落ち着いていて好みだった。
「好きなところに掛けて待ってて。」
 そう言って、男の人はガラスケースの奥にある扉の向こうに姿を消した。私は、智子と共に窓際の一番奥の四人掛けテーブルに向かい合ってつく。私は窓際の椅子に荷物を載せ、返すタイミングを逃したバスタオルをその背に掛けた。
「いいお店だね。」
 私が言うと、智子も笑顔で頷く。窓の外に見える庭も綺麗に手入れがされていた。両手を広げて襲い掛かるように道路へ張り出していた《お化け屋敷》のシンボルの栗の木も、今は毬と黄色い葉を庭に落として静かに佇んでいる。ここがかつて《お化け屋敷》を呼ばれていたことが嘘のようだった。
 しばらくの間ぼうっと店内を見回していると、どんっと低い音が響いた。音の発生源へ目を向けると、ガラスケースの脇で男の人がストーブを抱き上げようとしている。
「それ……なんですか。」
 ケーキが出てくるものと思い込んでいた私は、男の人の謎の行動に首を傾げた。智子も呆れた様子で眺めている。
「いや、ストーブ。靴を乾かすのに……。」
 男の人はストーブを抱えて私たちが座っている店の奥までやってくる。こんなことなら、もう少し手前に腰を下ろせばよかった。
「今、スリッパを持ってくるから、靴、脱いじゃって。」
 男の人は、ストーブのプラグを壁のコンセントに差し込み、再び慌しく店の奥へ戻っていく。
「それ、反対に向けない?」
 智子がストーブを指差して言った。
「靴だけ脱いで置いとけばいいんだからさ。暑いよ。」
 智子はひらひらと顔の横で手のひらを揺らす。
 秋もだいぶ深まって、朝夕の風は冷たくなってきたが、部屋の中で間近なストーブの火に当たるほど寒くなってはいない。
 私がストーブの向きを変えようと立ち上がりかけると、男の人が妙にもこもこしたスリッパを携えて戻ってきた。
「これに履き替えて、靴はストーブの前に置いておけば乾きも早いと思うんだ。あ、そのバスタオル、もういいかな。」
 男の人は私の足元にスリッパを置き、隣の椅子の背に掛けていたバスタオルを指差した。
「あ、はい。」
 私がバスタオルを取って渡すと、男の人はそれをくるくると丸める。
「じゃあ、ケーキ持ってくるね。飲み物は紅茶とコーヒーとどっちがいいかな。」
 男の人は笑顔を向けて私に問い掛けた。
「えっと、じゃあ紅茶を……。」
「私はコーヒー。」
 小さく答えた私に続いて、智子がはっきりと答え、私は申し訳ない気持ちになった。紅茶とコーヒー、私と智子がそれぞれ別のものを頼めば、その準備には余計な手間が掛かってしまう。だからと言って、私が智子に合わせるわけにもいかなかった。コーヒーは苦くて私には飲めたものではないのだ。
「分かった。紅茶と、コーヒーだね。」
 男の人は指差し確認して、店の奥へと戻っていった。
「なんかちょっと悪い気がする。」
 私が自分のお子様な舌を後悔しながら呟くと、智子は「なにが?」と聞き返しながら立ち上がる。私は智子に同意を求めようと思ったことが間違いだったと悟った。智子は手間を取らせるのが悪いから、本当はコーヒーが飲みたいけれど紅茶にしようなどと考えるタイプではない。どちらかと言えば、自分で淹れるからとにかくコーヒーを飲ませろと言うタイプだ。前に私がコーヒーは苦くて飲めないと言ったら、「苦いコーヒーと甘いお菓子。この組み合わせが重要なのよ。抹茶だって甘ったるい和菓子が付いてくるじゃない。」と妙なこだわりを持っている様子だった。
「通行人に水を吹っ掛けた責任はあっちにあるんだし、今日作ったケーキを明日売るわけにもいかないんだから、私たちは感謝されたっていいくらいなんだよ。こっちが気を遣う必要なんかないって。」
 智子はストーブを引きずるようにして、赤く熱を放ち始めたそれの向きを変えた。確かに、智子の言う通りだ。水を掛けられたのは曲がり角をいきなり飛び出した私にも非があるはずだが、私たちがケーキをご馳走になることでお店に損失をもたらすわけではない。ただ私がどうにも悪い気がする≠フは、あの人の好さそうな男の人個人に対してなのだ。
「ほら、とっとと靴脱がないと乾かないよ。」
 智子が手を出したから、私は慌てて右の靴を脱いで、智子に差し出した。
「靴下は?」
 催促されて、靴下も脱ぐ。
「左は平気なのね?」
 矢継ぎ早に智子に問われ、私は慌ててうんうんと頷いた。右はスリッパなのに左は靴を履いたままという状態は何となく違和感を感じるが、わざわざ履き替えるのも面倒だ。智子は、私に背を向けたストーブの前に靴と靴下を並べると、小さく息を吐いて再び椅子に腰を下ろした。
「昔から、あんたとは好みが違うとは思ってたんだけどねえ。」
 突然、智子がテーブルに頬杖を突いて言った。私の顔を見ながらにやにや楽しそうに笑っている。
「好みが違う? 智子もこのお店気に入ったんじゃないの?」
 私が智子の意図を理解しかねて聞き返すと、智子は頬に当てていた右手を外し、ひらひらと顔の前で振った。
「違う、違う、店の話じゃない。男の話。」
「お、男?」
「昔っから、美緒はああいうなよなよした男が好きなんだよ。私が蹴っ飛ばしたくなるような奴ばっか。三組の小川に、卒業しちゃった倉西先輩。」
 智子はけらけらと笑う。
「ちょ、ちょっと待って。ああいうなよなよした男って誰のことを……。」
「ここのオーナーパティシエに決まってんでしょ。さっきから行ったり来たりしてる奴の背中をぽーっと見てる。本当、分かりやすいよ、美緒はさ。」
 智子はさっさと私が今日会ったばかりの男の人を好きになったと決め付けて、楽しそうに微笑んでいる。
「私は別にそんなんじゃないよ。それに私、まだ高校生だよ? 相手にされるわけないじゃん。」
「そう? 見たとこまだ二十代前半って感じだし、十くらいの年の差なんて大したことないよ、結婚しちゃったらさ。」
「け、結婚!?」
「誕生日が来れば美緒だって十六でしょ? 女の子は十六歳で結婚できるんだよ。まあ、美緒にその気がないなら、別にいいんだけどね。」
 智子はにこっと笑みを見せると、勝手に話を終わらせて窓の外へと目を向けた。私は反論の機会も与えられずに、仕方なく店内に視線を泳がせる。
 ふと見やった先に彼がいた。目が合って笑顔で微笑まれ、私は慌てて視線を下へ向ける。どう見たって挙動不審だ。智子が変なことを言ったせいで変に意識が働いてしまう。
「お待たせしました。」
 両手に銀のお盆を載せた彼はお盆の一つをテーブルの端に載せ、私の前にソーサーに載ったティーカップを置いた。
「紅茶はレモンティーで良かったかな。」
 彼が私に尋ね、私は「はい。」と頷いた。私はストレートで構わなかったのだけれど、せっかく用意してくれたのだから、ミルクだろうがレモンだろうが文句は言えない。輪切りのレモンが入った空のカップの隣に、小さなポットが置かれる。普段ティーバッグのお世話になっている私には、ちょっと本格的過ぎるような気がして緊張する。彼は智子の前にやはりソーサーに載ったコーヒーカップを置き、隣にミルクとお砂糖の入った小瓶を添えた。
 そしてついに、ケーキの登場である。テーブルの端に置かれたそれはずっと視界に入っていたのだけれど、改めて目の前にすると妙なありがたみを感じる。
 渋皮付きの巨大な栗が載ったモンブランは、厳めしく私の前に鎮座していた。
「モンブランなんだけど……口に合うかな。」
 彼は遠慮がちに言って、どうやら私たちがケーキに手を付けるのを待っているようだった。
「私、モンブランって食べるの初めてです。」
 私は目の前のモンブランを見つめながら言った。父や母が買ってくるケーキの中にモンブランが混じっていることもあったはずだが、そういう時、私は大概モンブランではなく苺のショートケーキやフルーツタルトを選択した。黄色い栗よりも、赤い苺や盛り沢山のフルーツの方が豪華でおいしそうに見えたからだ。
 黄色い栗が載った黄色い小さなモンブラン。それが私の頭の中にあるモンブランのイメージだったが、目の前にあるモンブランは少し様子が違っていた。頂上に載った栗は渋皮付きで黄色ではなく茶色だし、糸状の栗のペーストもやはり薄い茶色をしている。それになにより、私が知っているモンブランに比べるとかなり大きい。貫禄があるというのはこういうことを言うのだろう。
「モンブランは僕が一番好きなケーキなんだ。口に合えばいいけど。」
 彼が優しく微笑んだような気がした。ような気がした≠ニいうのは、私が彼の声を聞きながらじっとモンブランを見つめていたからだ。
「確かモンブランってこのお店の名前にもなってましたよね。」
 智子はフォークを手にすると、顔を上げて彼に尋ねた。
「うん。一番好きなのと……名前がね。」
「名前?」
 照れくさそうに彼が言い止まって、私は聞き返した。
「僕の名前、苗字だけど、栗山って言うんだ。モンブンランは栗を使ったケーキで、名前はヨーロッパアルプスの最高峰に由来してる。だからまあ、栗と山で……。」
「そのセンス、オヤジギャグレベルだと思う。」
 彼――栗山さんが言い終わらぬうちに、智子は遠慮なく言い切った。智子は昔からこの手の冗談には厳しい。
「智子、失礼だよ。」
 私は何とかフォローしようと慌てて頭を働かせたが、上手いフォローの仕方が浮かばない。
「いやいや、いいよ。そう言われるだろうなと思ってたし。」
 栗山さんは苦笑いしながら頭を掻く。私は心底、申し訳なく思った。
「でも、すごくおいしそう。」
 何とか話題を切り替えようと、私は目の前のモンブランに視線を移した。頂上の栗はシロップに包まれてきらきらと輝いているし、栗のペーストは細やかな線を描いて重なっている。父と近所のスーパーには悪いが、今まで食べてきたケーキとは格が違うような気がした。
「いただきます。」
 先に手を付けたのは智子の方だった。私も小さく「いただきます。」を唱え、フォークを手に頂上の栗と栗のペーストを併せてすくい上げる。
「おいしい。」
 私は思わず声を上げた。
「うん、悪くない。」
 智子の評は相変わらず厳しいが、口に合わなければはっきり「まずい」と言う彼女だから、この評価はかなりいい方だ。満足げな表情で、どうやら好みの味らしい。
「そう? 良かった。」
 栗山さんの顔が一気にほころびる。
「とってもおいしいです。今まで食べたケーキの中で一番。」
 更にもう一口モンブランを口に入れた後で、私は興奮して言った。嘘を言ったつもりはなかった。栗のペーストはしっかりと栗の味がしたし、その下に隠れたクリームも変に脂っぽかったり、甘過ぎたりすることはない。お買い得ケーキは一つ食べれば胃もたれを起こすのには十分だけれど、このモンブランならいくらでも食べられそうな気がする。
「ありがとう。」
 栗山さんは真っ直ぐ私を見て笑った。視線が合って、笑顔が向けられて、私はどくんっと心臓が跳ねるのを感じた。先程の智子の言葉が無意識の内に甦る。
 ――結婚。
 いや、それは早過ぎる。私の頭は悲鳴を上げながら無意味な高速回転を続けていた。気が付けば、フォークを持った手が僅かに震えている。まずい。
「この子、あまりのおいしさに震えが止まらないみたいです。」
 智子が私を指差しながら、栗山さんに告げる。「余計なことを。」と叱咤したいのに、私の頭はそれを許さない。私は何とか震えを抑えてフォークを置き、小さなポットに手を伸ばした。
「注ごうか?」
 ふっと脇から伸びてきた手が私の手と触れて、私は慌てて手を引っ込めた。
「す、すみません……。」
 私が両手を膝に置いて縮こまりながら答えると、栗山さんは慣れた様子でそっとカップに紅茶を注ぐ。ポットの蓋に添えられた細い指先を「綺麗だな。」と思う。
「はい。」
 ポットから紅茶を注いで、栗山さんは軽く私の方へカップを押した。
「どうも……。」
 そっとカップに手を伸ばし、ゆっくりと口元へ運ぶ。
「じゃあ、僕はちょっと奥にいるけど、ゆっくりして行ってね。飲み物もお替りが必要なら声を掛けて。」
 栗山さんはにこりと微笑んで、私たちに背を向けた。私はカップに口をつけたまま栗山さんが扉の向こうへ消えるのを見送る。
「好き?」
 突然、智子が聞いた。
「な、何がっ!?」
 私が慌ててカップから口を離すと、智子はにこりと笑って目の前のケーキを指差した。
「おいしいでしょ、モンブラン。」
 もしも足が届くなら、私は向かいに座った智子の足を思い切り踏んづけてやりたかった。

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