ここち

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モンブラン通りのスウィートハート


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 定休日の翌日、《ル・モンブラン》を訪ねるお客さんは三割増しになっていた。昨日一日食べることのできなかった栗山さんのケーキを求めて、近所の奥様方が集ってくるのだ。
「いらっしゃい。」
 栗山さんがコーヒーとケーキをトレイに載せて工房から出てきた。
「ちょっと待っててね。」
 栗山さんはコーヒーとケーキを喫茶コーナーの奥へ運んでいく。トレイに載っていたケーキは、私が大好きなモンブランだった。ついに店頭にも並ぶことになったらしい。
 栗山さんと話をしたいが、お客さんの多い営業時間中はまず無理だろう。ケーキを食べながら閉店まで待っているしかない。いずれにしても、お店に来たからにはケーキを食べるつもりだったし、定休日の翌日にお客さんが増えることも経験則上分かっていた。
 私は今日のおやつを選ぶため、ガラスケースの中を覗き込む。並んだケーキはそもおいしそうに輝いていて、私は役目を忘れて見入ってしまった。
 実際にケーキを食べるのと同じくらい、私はケーキを見るのが好きだ。綺麗にデコレーションされたホールケーキはもちろん、一切れ一切れが宝物のようで、見ているだけで幸せな気分になれる。
 ガラスケースの端から端へ視線を走らせた私は、隅の開いた空間に目を留めた。目玉の新商品であるはずのモンブランの値札の奥に、肝心の主役がいないのだ。
「ご注文はお決まりですか。」
 背後から掛かった声に振り返ると、コーヒーとケーキを運び終えた栗山さんが喫茶コーナーから戻ってきていた。
「これ、モンブランって売り切れちゃったんですか?」
 私はぽっかり空間の開いたガラスケースの中を指差しながら尋ねた。
「うん。さっきのが最後で……ごめんね。」
 栗山さんは私の正面に立って腰を屈め、申し訳なさそうに首を傾げる。
「いえ、嬉しいです。私も大好きなケーキだから、他のお客さんにも好評なら……。」
 栗山さんの肩越しに、本日最後のモンブランを口にした奥様が嬉しそうに顔を綻ばせるのが見えた。モンブランの売れ行きがいいということは、栗山さんのモンブランを一番と評した私の舌が間違ってはいなかったという証拠でもある。
「ありがとう。お土産にってまとめて五つも買って行ってくれる人がいてね、僕も嬉しい。」
 言いながら、栗山さんは私の頭をくしゃくしゃと撫でた。予想外の栗山さんの行動に、私は驚きを顔に出してしまったらしい。
「あ、ごめん。姉さんの癖がうつったかな。」
 栗山さんは慌てて手を引っ込めると、口元に手を当てて視線を逸らした。
 栗山さんに頭を撫でられるのはこれが二度目だ。最初に撫でられたのが昨日だった。一年近くお店に通い続けたけれど、私と栗山さんがお互いに触れ合う機会は少なかった。あくまでもお客と店主として、せいぜいがお釣りを受け取る際に指先が触れ合う程度のなのだ。今日、再び栗山さんに頭を撫でられて、私はこの微妙な距離感の変化に戸惑った。
 しかし、そもそも頭を撫でるという行為は子供に対してするものだ。昨日、頭を撫でられた時は、お客さんではなく女の子として扱われたことが嬉しかったけれど、女の子として扱うことは子供として扱うことと部分的に重なるものだと思い出した。昨日、美咲さんが散々私を「小さい」と形容していたから、栗山さんの頭の中にも小さい子供としての私が刷り込まれてしまったのかもしれない。これはあまり嬉しくない事態だ。
「どれか決まった?」
 栗山さんはカウンターの中へ入り、ガラスケース越しに聞いてきた。
「えっと、じゃあ、ガトーショコラ。」
 期間限定、数量限定のモンブランは私のお気に入りのケーキだったけれど、さすがに三日連続で食べるのもどうかと思っていたから、候補は店に着く前に絞り込んでいた。白い粉砂糖を振り掛けられたダークブランのガトーショコラは、モンブランよりも一足先に店頭に並んだ新作だった。私は既に三度ほど口にしているけれど、モンブランに劣らない味は智子も保障している。
「飲み物はいつもの紅茶でいい?」
 私が栗山さんの問いに頷くと、栗山さんはいつも通りの笑顔を見せて工房へ続く扉の向こうに姿を消した。私は、いつも利用している窓際の席が空いていることを確認して、喫茶コーナーを進む。途中で、本日最後のモンブランが視界に入った。向かい合って座っている二人の奥様は、ケーキを食べる手を止めてお喋りに夢中になっているようだが、耳に入った会話は目の前のモンブランについてのものだった。私は思わず笑みを浮かべて、窓際の一番奥の席に腰を下ろす。
 ゆっくりと店内を見回して、私はこの店が好きだと改めて思った。この窓際の席は、今や私にとって自宅以上に落ち着く場所となっている。できることなら、栗山さんにはフランスに行かずにこのままお店を続けて欲しかった。そう思う一方で、美咲さんの真剣な表情が脳裏を過ぎる。パティシエとして成長するためには、栗山さんはフランスへ行った方がいい。他のパティシエやシェフと切磋琢磨できる環境は理想的だと言う美咲さんの主張は大いに当を得ている。
「結局、本人次第なんだよねえ。」
 私は目の前のテーブルに倒れ込んだ。栗山さんに話を聞くことなく独りで仮定の議論を続けていても意味がないと分かりつつも、つい思考の無限連鎖に入り込んでしまう。
「美緒ちゃん。」
 名前を呼ばれて顔を上げると、栗山さんが銀のトレイを片手に隣に立っていた。
「わっ、すすすすすみませんっ。」
 だらしなくテーブルに伏していた私は、慌ててテーブルから飛び上がった。うっかり気を抜いたら、危うくそのまま眠ってしまうところだった。昨晩、ベッドの中でどうやって栗山さんと話をするべきか考え続けて、きちんと眠ることができなかったのが原因だろう。
「いいんだよ、かしこまらなくて。ここはそんな堅苦しい店じゃないから。」
 栗山さんは笑顔でそう言って、私が退いたテーブルの上にケーキと紅茶を並べてくれた。
「今日は智子ちゃんは部活?」
 栗山さんが聞いてきた。お客さんの多い店内で、営業時間中にこうした雑談をするのは久しぶりだった。
「はい。来月、選抜予選があるとかで……。」
 バスケ部の活動が熱心なのは今に始まったことではないが、このところは連日、朝早くから夕方遅くまで練習している。
「そう。美緒ちゃんは部活はやってないんだっけ?」
「へ? あ、いや、一応やってるんですけど、文化部なので……。」
 思いの外、会話が長く続きそうなことに驚きながら、私は俯いて答えた。
「文化部って何をするの?」
 文化部を特定の部活動の名称だと勘違いしているようにも取れる栗山さんの質問に、私は突っ込むべきなのか迷ったが、表情を見る限りでは真面目に尋ねているらしい。
「その、文芸部で、本を読んだり小説を書いたり……。」
「小説を書くの?」
 栗山さんの声には驚きのニュアンスが含まれていた。
「小説というより童話のような、大したものではないんですけど……。」
「すごいな。よかったら、今度読ませて。」
 栗山さんがにこりと微笑む。
「はあ……って、いや、そんな本当に大したものじゃないんで!」
 栗山さんの笑顔にうっかり肯定の返事をしそうになって、私は慌てて声を上げた。思いの外大きな声になってしまったらしく、店内の奥様方の視線が私に集中する。私は恥ずかしさに恥ずかしさを重ねて俯くしかなかった。
「栗山さーん。」
 先程まで入り口近くに陣取っていた奥様方の集団が、レジの前に集って栗山さんを呼んでいる。既に何度もお店で顔を合わせている常連の奥様方だ。
 栗山さんは奥様方に短く返事をしてから、再び私を向いて微笑む。
「ゆっくりしていってね。」
 言われずとも、今日は閉店まで居座るつもりだった。お店の混む日に長居をするのは申し訳ない気もするが、入り口付近を陣取っていた奥様方はお帰りのようだし、ピークの時間は過ぎているから、座席数が足りなくなる心配はないだろう。
「今度読ませてね、小説。」
 去り際、栗山さんは笑顔でそう一言付け足した。できることならなかったことにしたい失言を思い出して、私は顔を歪めたまましばし固まった。栗山さんは既にレジの前へ向かいながら、奥様方と話している。
「社交辞令、社交辞令。」
 気を取り戻した私はそう自分に言い聞かせて、紅茶をポットからカップへ注いだ。白い湯気が立ち、カップを口元へ寄せると、ダージリンの香りが鼻腔をくすぐる。私は紅茶を一口飲んでから、ガトーショコラと対峙した。切り口を覗くと、茶色の生地により濃い色をしたチョコレートの欠片が見える。上面に降りかけられた粉砂糖は地面に積もった雪のようで、ところどころが小さな星型に抜かれている。私は栗山さんのこうした丁寧な演出が好きだった。
 フォークで三角の角を切り落として口へ運ぶと、適度な甘さが口の中へ広がる。私はややこしい問題をひとまず忘れてケーキを味わうことに専念することにした。

 空が夕日に染められて、ついに店内には私と栗山さんだけが残された。私はすっかり冷めきってしまった紅茶を飲み干して、席を立つ。ガラスケースの中を片付けていた栗山さんが、手を止めてレジに立った。
 私はついに話すべき時が来たと、自分でもやや大袈裟だと思うような心境を抱きながら、先に会計を済ませることにした。今度ばかりはきちんと支払いをしなくてはならない。
「五百五十円ね。」
 告げられた金額は、私が予め計算していたものと同じだった。私はほっとしてお財布からちょうどの金額を取り出し、小さな銀のトレイに載せた。栗山さんは私が出したお金をトレイごと受け取って、レジの中へ種類分けして入れる。
「はい、レシート。」
 栗山さんはゆっくりとレジから排出されたレシートを取って私に手渡した。いつもなら、私はここで一言お礼を述べて店を出るのだが、今日はまだお店を訪れた一番の目的を達成していない。
「あの……。」
 お店の隅で何度も脳内シミュレーションを繰り返したはずなのに、言葉は素直に出てきてはくれなかった。栗山さんは微笑を浮かべたまま首を傾げる。
 言わなくてはというより、聞かなくてはならない。美咲さんに頼まれたこともあるが、純粋に私自身が聞きたいことでもあった。
「フランスに行くって話、美咲さんから聞きました。」
 この前置きだけで、栗山さんの表情は明らかに陰りを見せた。だからといって、ここで前言撤回して話を終えるわけにはいかない。
「栗山さんは本当に……。」
「行かないよ。」
 栗山さんは私の言葉を途中で遮ると、微笑んだ。
「フランスには行かない。ここでお店を続けるつもりだよ。常連のお客さんも増えてきたし、美緒ちゃんみたいに僕のケーキをおいしいって言って食べてくれる人がいれば僕は満足だから。」
 いつも通りの笑顔で、嘘を吐いているようには見えなかった。嘘を吐く理由だってないだろう。それでも私は、この栗山さんの答えが不満だった。
 私は「本当にフランスには行きたくないんですか」と続けるつもりだった。行くか行かないかの結論ではなく、栗山さんの本当の気持ちが知りたかった。
「どうして……ですか。」
 自然と口を吐いた私の言葉に、栗山さんは戸惑ったようだ。
「どうしてって、言われても……。」
「美咲さんが言っていました。フランスに行けばパティシエとしていい経験ができるって。もっともっとおいしいケーキが作れるようになるはずだって。栗山さんはフランスに行きたくないんですか?」
 最初の一言が出てしまうと、その先は矢継ぎ早に言葉が浮かんだ。
「行きたくないわけじゃないよ。けど……。」
 栗山さんの顔から、既に笑顔は消えていた。迷いと躊躇いの視線を漂わせながら、栗山さんは力なく垂れた左腕に右手を回す。「行きたくないわけじゃない」のではない。行きたいのだ。栗山さんはフランスに行きたいと思っている。
「世界一のお菓子、作るんですよね。それが栗山さんの夢だったんですよね。」
 栗山さんがフランス行きを望むなら、私は栗山さんの背中を押さなくてはならない。美咲さんに頼まれたから、それが栗山さんのためだから、何より私がそれを望むからだ。
 栗山さんは開きかけていた口をきゅっと一文字に結んだ。
「フランスだけがお菓子作りを学ぶ場所じゃないから。」
 柔らかな息と共に、栗山さんは言葉を吐いた。
「思い出の場所でこうやってお店が持てて、美緒ちゃんのようなお客さんが来てくれて、僕は今、幸せだから。だから僕はここでお店を続けたいんだ。」
 栗山さんはそう言って私に笑い掛けた。私は初めて、栗山さんの笑顔に腹が立った。これは偽物の笑顔だ。声は今にも泣き出しそうに震えている。偽物の気持ちを自分に押し付けて納得しようとしている。許せなかった。栗山さんらしくないのだ。
 私の知っている栗山さんは、お菓子作りに関しては決して妥協しない人だった。毎日、お店の営業時間が終わってからも、定休日でさえも工房にこもって新作のレシピを練っていた。何度も試作品を作り直して、自分の納得できるものができるまでは決してお店に並べないどころか、他人が味見をすることさえ許さなかった。一度完成したレシピも、常に見直してより良くなるように改良を重ねていた。最高のものを作ろう。世界一のお菓子を作ろう。ずっとそう努力していたはずなのだ。
「お店は、一度フランスに行って戻ってきてからでもできます。でも、フランスに行けるのはこれが最後かもしれないんです。せっかくのチャンスなのに、それをみすみす逃して栗山さんは本当に満足できるんですか? フランスへ行ったら失敗するかもしれないから、だから現状維持で満足しようとしてるんじゃないんですか?」
 私の声は段々と熱を帯びて、詰問調になっていった。小さな子供に責め立てられて、さすがの栗山さんも頭にきたのだろう。
「君には分からないよ。」
 栗山さんは表情を失い、静かに紡がれた言葉はいつになく冷たかった。怒りに近い不快感がはっきりと表れている。今の栗山さんからは、日頃の穏やかで温かい雰囲気は感じられない。俯きがちの表情は怖いとさえ思う。それでも、私は怯むわけにはいかなかった。私もまた怒っていたのだ。たぶん、栗山さん以上に。
「分かるわけない。栗山さんが何を考えてるのか全然分からない! フランスに行ってもっとたくさんお菓子のこと勉強して、もっとおいしいお菓子を作れるようになりたいんでしょう!? なんで行かないのよ。思い出の場所にお店を開いて、そこそこお客さんも入ってるからそれでいいなんて、ただ諦めてるだけじゃない。思い出に浸って逃げてんじゃないわよ、このマザコン男! 意気地なし!」
 気が付いたら、全力で叫んでいた。自分が何を叫んだのかさえ一瞬忘れて、全てを吐き出した勢いで、私はそのまま店を飛び出した。
 知らずと溢れ出した涙のせいで視界はぼやけ、私は門を抜けて曲がり角を曲がった瞬間、何かに蹴躓いて転びそうになった。塀に手を付いて体勢を整えると、足元に茶色い毬が転がっている。見上げると、年老いた栗の木がだらりと枝を垂れ下げていた。私はとめどなく溢れる涙を袖口で拭いながら、自宅への道を歩き始めた。

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